日本の自主規制は77年にカラーテレビ、81年には自動車に広がった。一方、米国は85年、日本との間でエレクトロニクス、電気通信、医薬品・医療機器、林産物、輸送機器の各分野で日本市場への参入を難しくしている障害を排除するMOSS(市場重視型個別協議)に入り、同じ年、日本の半導体市場が閉鎖的であるとして米通商代表部(USTR)に日本への制裁措置を求める通商法301条提訴まで求めた。

 ボルカーらが漏らしたのは、それぞれの市場で個別交渉をしてきたが、思うような効果が上がらないため、円高にして輸出競争力をそぐという本音だった。実際に円の国際化は米国のもくろみ通りには進まず、最後はプラザ合意で主要国による協調介入という力技を行使して円高を実現している。

繊維摩擦の裏に首脳の密約

 戦後70年。日本経済は70年代初頭まで高度成長を遂げ、2度のオイルショックを経て、80年代後半のバブル期に再び大きく拡大した。その後の停滞は20年余り続く。

 日米経済摩擦のほとんどは、成長の時代に起きている。追われる米国と、その米国の背中に迫る日本との対立の中で発生している形だが、必ずしも日本製品が米国市場を席巻していたからではない。

輸出比率は摩擦のたびに大きく下がった
●日清紡の輸出比率の推移
輸出比率は摩擦のたびに大きく下がった <br>●日清紡の輸出比率の推移
注:日清紡の売上高に占める輸出比率の推移
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 例えば繊維の場合、69年当時の米国市場での日本の繊維製品のシェアはわずか2%。にもかかわらず日本の繊維が米国市場を荒らしているとして協議の対象になった裏には、大統領のリチャード・ニクソンの思惑があった。68年の大統領選で繊維業者の多い南部の票を獲得するために「全繊維製品の輸入に速やかな措置を取る」と言明したのがきっかけだ。

 日本側も似たようなものだ。当時の首相、佐藤栄作が悲願とした沖縄返還を成就するために、見返りとして繊維製品の自主規制を受け入れるとニクソンと「密約」を交わしていた。

 ただ経済摩擦を収める際、日本には変えようもないものがあった。「対米関係は重視せざるを得ない」(元経済企画庁長官の宮崎勇)という難題である。最終的には米国の要求を受け入れ、輸出を自主規制するなどの措置を取らざるを得なかった。企業経営はそんな政治決着の影響を受けた。上のグラフは日清紡ホールディングスの輸出比率の推移。途中まで国内市場が伸びたこともあるが、摩擦と円高の中で確実に落ちている。

 経済摩擦と企業経営のその関係に変化がでてきたのは90年代後半からだ。経済外交の劣勢の影響を受けたまま競争力を失い、衰退した産業と、一旦影響は受けても競争力を維持した産業に差が出てきたのである。

 端的に言えば、繊維と自動車は競争力を高めたが、半導体は衰退の一途をたどった。まず繊維の場合は、輸出を減らし、苦境にあえぐ中で新市場を自ら作り出していった。技術の転用を図り続けてきたのである。例えば東レは、繊維摩擦がまだ本格化する前の61年から炭素繊維の開発に乗り出し、約50年かけて航空機材料を生み出した。文字通り超長期の研究開発で成果を上げてきたのだ。

 この間に約10社のライバルが、炭素繊維開発を見切り、結果として東レは世界トップシェアとなっている。

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