(日経ビジネス2015年10月26日号より転載)
1950~60年代以降、日米経済摩擦が激化。産業に影響を与えてきた。対応はほぼ対米追随型。譲歩を続ける中で一部産業は競争力を失った。だが、摩擦をバネに競争力を維持・向上させ、成長した産業もある。
1983年10月10日、大蔵省で通貨交渉を取り仕切る財務官に就任して間もない大場智満はハワイにいた。財務官の行動を常に追う新聞記者たちにも隠密の動きだった。

待ち受けたのは、連邦準備理事会(FRB)議長のポール・ボルカー。ハワイで開かれた全米銀行大会に出席するという名目のボルカーは、大場の顔を見据えると切り出した。「近く、ロナルド・レーガン大統領が訪日する際に日本の金融市場の自由化を提案する。下準備をしてくれ」。
金融市場の自由化とは、円の国際化のこと。円を世界で使える通貨にしてくれというわけだが、そこに隠された意図に大場はすぐ気付いた。「円高にしたいということか」。円が決済通貨としてより多く使われるようになれば、円買い需要で円高になる。それが狙いというわけだ。このひそかな会合が、2年後の85年9月、世界を驚かせたプラザ合意につながる第一歩だった。
この時、大場はボルカーらとのやりとりの中でもう一つ、聞き逃せない言葉が漏れ出たのに気付いた。「これまで米国は、繊維や自動車など(の貿易摩擦問題)で、日本と2国間交渉をしてきたが、どうやら間違ったドアをノックしていたようだ」。
日米間には50年代から貿易摩擦が頻発していた。幕開けは単価が1ドル程度の「ワンダラーブラウス」と呼ばれた綿製品で、日本からの輸出急増に米繊維業界が反発。日本は57年から5年間、輸出自主規制を迫られた。69年には日本は鉄鋼輸出の増大に対して輸出自主規制を実施、72年には繊維の輸出自主規制を毛・化合繊へ拡大した。
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