米英に10年以上遅れた改革

 具体的には、①証券会社開業を免許制から登録制にするなど、証券、保険などの分野への新規参入促進②業態ごとの商品・業務規制の撤廃・緩和③株式売買など手数料の自由化④銀行を経由することになっていた為替取引の自由化⑤デリバティブの導入・利用拡大⑥情報開示の拡大⑦証券取引所以外での証券売買解禁──などだった。

 「日本の金融が大きく変わる」。松本は一読してそう直感した。

 日本版ビッグバンは、戦後日本にとってエポックメーキングな出来事だったが、米国や英国に比べ出遅れ感は否めなかった。

 米国は、1975年に証券取引所で証券の売買をする集中義務を撤廃。さらに株式などの委託売買手数料も自由化するなど、断続的に改革を続けた。この結果、市場には多様なプレーヤーが参入。株式の売買だけでなく、様々な投資信託が登場し、活況を呈した。さらに企業のM&A(合併・買収)仲介や市場参加者自身の株式の自己売買など投資銀行業務も成長し、世界最大の金融大国となっていった。

 70年代まで米国と並ぶ金融市場だった英国は、米国の改革でいったん、その地位を低下させていた。それを巻き返そうと、86年から取り組み始めたのが日本のモデルにもなったビッグバンだった。手数料の自由化をはじめとした規制緩和を一気に行い、米国に引き寄せられていた取引を再びロンドン市場に取り戻したのである。

 この時の米英に共通するのは、日本に逆転された製造業でなく、金融を経済の重要なけん引役に位置付け、そのための環境整備を図ったことだ。米国では、80年代半ばにGDP(国内総生産)に占める金融・不動産業の比率が製造業を逆転していた。その産業構造の変化に対応して、米国にもう一度成長力をつけようとしたのである。

 一方の日本は米英のような資本市場改革がほとんど進まなかった。80年代半ばには大手都市銀行が巨大化。世界の預金残高ランキングでトップ10の半分を占めるほどにもなって、その力を過信した。株式市場もバブルで上昇を続け、市場改革のニーズを感じた人間がいなかったからだ。

 その結果、日本の金融ビジネスは米英の変化の潮流から取り残された。米英の金融機関が証券業務に果敢に攻め込み、M&A仲介や自己売買、デリバティブ(金融派生商品)の開発など、新たなビジネスを必死に開発していたのに、日本の金融機関の主要業務は相変わらず個人や企業から預金を集め、貸し出す伝統的な商業銀行の域を出ることがなかった。

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