年収の5倍でも自宅が買えない

 この円ドル委員会をさらに遡ると、日米間で50年代から時代ごとに激化した繊維、鉄鋼、テレビ、自動車などの貿易摩擦がある。大量の輸出で米国内産業を圧迫しているとして、米国が日本に輸出規制などの譲歩を迫る構図が続いてきた。

 日本の経済力がピークに達した80年代は、この摩擦が最も激しくなった時期だった。86年には対外貿易黒字の縮小を目指して内需拡大を図り、日本の市場開放策を示すいわゆる前川リポートが策定された。89年にも、ほぼ同じ目的で日米構造協議が行われた。

 前川リポートでは「『消費生活の充実』によって内需拡大を図るとした部分が後に、リゾート法につながり、バブルの一因になった」(策定メンバーの一人で元経済企画庁長官の宮崎勇)。構造協議では「最後に公共事業に焦点が当たる不幸な結果になり」(交渉メンバーの一人で大蔵省財務官だった内海孚)、日本は10年間で630兆円に及ぶ公共事業の実施を“約束”した。経済力の低下に対する米国の焦りが、日本への強い圧力となり、バブルの一因にもなっていった。

バブルの生成と破裂に対処した元首相、宮沢喜一(左)、膨張期に日銀総裁を務めた澄田智(中)、公定歩合の引き上げでバブルの幕を引いた澄田の後任の三重野康(右)(写真=左:ロイター/アフロ、中:時事、右:読売新聞/アフロ)

 このバブルの生成過程で見える様々な顔は、経済の心臓であり血液である金融をコントロールするための国のマネジメント力の欠如ではないか。バブルの崩壊過程の政策の稚拙さがそれを示す。89年になると、特に地価の高騰に対する国民の不満が鬱積してきた。宮沢政権は「年収の5倍でマイホームを買える」政策を掲げていたが、それは絵空事にさえなっていた。地価を下げ、バブルを収束させることは一種の社会正義にさえなっていた。

 日銀は、89年5月から1年半で5回の利上げに踏み切り、公定歩合を6%まで押し上げた。89年12月に総裁に就任した三重野康が「平成の鬼平」と、もてはやされたのはこの時だ。

 ところが、政府はこの時、致命的な政策ミスを犯す。日銀が利上げを続けるさなかの90年3月、金融機関から不動産会社に対する融資の総量を規制し始めたのである。「利上げより融資規制の方が地価下落に明らかに効果を表す」(ドイツ証券不動産担当アナリスト、大谷洋司)と分かっての策だ。

 株価は、利上げで90年初めから下げ始めていたが、地価は約1年持ちこたえた。利上げと同時に行うマネーの絞り込みは、粘る地価を最終的にたたき落とす政策に等しかった。