「抑制の時代」が始まったのは、それから10年以上たった後である。86年の基礎年金の導入だ。それまでサラリーマンが加入する厚生年金と、自営業者らが加入する国民年金は全く別の制度だった。基礎年金の導入は、この別物の年金制度の一部を一体化するというものだった。1階の基本部分と2階の報酬比例部分からなる厚生年金の基本部分と国民年金を一体化して基礎年金としたのである。
「国民年金と厚生年金、共済年金など、制度が分かれて給付内容や保険料率などに大きな差が生じているので、公的年金の格差を解消するのが目的だった」と吉原は言う。しかし、その裏にはもう一つ別の理由があった。
真の背景は国民年金の危機である。80年代に入って、日本は急速な人口の高齢化と、それに伴う社会保障費の膨張という新たな事態に見舞われた。高齢化率は70年頃にはまだ7%だったが、10年後の80年には9%に。そして、すぐに2桁の10%も超えていくことが分かってきた。しかし「拡大の時代」に給付を膨らませたため、年金の総給付費が激増した。70年まで1兆円に満たなかったのに80年には10兆円へ、わずか10年で10倍に急膨張したのである。
2004年改革、怒声で尻すぼみ
年金給付費の急増がまず財政を直撃するのは、相対的に所得の低い層が多い国民年金。当時、厚生省年金局にいたある中堅幹部が声を潜めて言う。「その頃は、国民年金を救わなければならないという思いが強かった」。悪化し始めていた国民年金財政を安定させるために、厚生年金の1階部分と一体化させ、厚生年金側の財源を使えるようにしようというわけだ。体のいい財布の使い回しである。
「抑制の時代」に入って最初に打ち出された改革は、保険料引き上げという本質的な対策ではなかった。取りやすい所から取るという手法である。改革と銘打ちながら、目的と手段はすり替えられた。
年金改革にとっての痛恨事は、年金財政の改善に大きな効果のある年金支給開始年齢の引き上げが遅れたことだという指摘もある。80年頃、厚生省年金課の課長補佐を務めていて、後に宮城県知事となった浅野史郎は、その当時、15~65歳の生産年齢人口と、それ以外の高齢者などの従属人口の比率を調べていて確信したという。「60歳の引退(定年)はもう続けられない。65歳まで延ばす必要がある」と。
厚生省年金局は80年に「支給開始年齢引き上げ」政策を打ち上げたが、自民党の強硬な反対で間もなく頓挫した。
ようやく実現したのは94年のこと。ただし厚生年金の1階部分だけ。2階の報酬比例部分の支給開始年齢引き上げが決まったのは、矢野が年金局長だった2000年になってからだ。80年に支給開始年齢引き上げを言い出してから実に20年がたっていた。
抜本的な対策が遅れ、年金財政は好転しない。むしろ悪化の道をたどった。2002年になると新しい人口推計が出て、さらに少子高齢化が進むことが分かり、再び対策が必要になった。
「この前の改革で大丈夫だと言ったじゃないか」。当時、厚労省年金数理課長だった坂本純一(現・野村総合研究所主席研究員)は、自民党厚労族のボスたちに、こう怒鳴り上げられた。
その怒声とともに始まったのが、自民・公明両党が「100年安心」をうたった2004年の改革だった。この改革は、それまでの発想を一転させた点では画期的だった。
「従来の給付抑制と、保険料率引き上げ中心の方法はもう限界にきている」(東京大学教授で厚労省年金部会長だった宮島洋)として現役世代の負担能力に合わせて給付を抑制しようとした。
マクロ経済スライドに加え、①厚生年金保険料率を2017年までに18.3%に引き上げて固定する上限設定方式の導入②基礎年金の財源の国庫負担比率を3分の1から2分の1へ、が柱だ。
しかしこれも結局、制度の要であるマクロ経済スライドの発動が大幅に遅れたため、年金財政の好転にはつながっていない。
そこにある危機が分かっているのに、見て見ぬふりをする。30年以上にわたる不作為は、「年金が本当にもらえるのか」という不安と、国家財政の破綻懸念を膨らませた。だが、それは歴史ではなく、今なお続く物語である。
=文中敬称略
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