58年1月29日、国会冒頭の施政方針演説で首相の岸信介はこう宣言した。「全国民を対象とする国民年金制度を創設するため調査に着手しました」。

 当時は、自民党と旧社会党が競い合う「55年体制」が成立して間もない頃。岸の施政方針演説の4カ月後には総選挙が行われたが、「選挙に勝つには年金の充実しかないという雰囲気だった」。厚生省(現・厚生労働省)で後に事務次官となった吉原健二はそう振り返る。選挙で自民党は勝ち、国民年金法が59年に成立。国民皆年金がスタートした。

 すると今度は厚生年金が手厚くなっっていった(年表「年金はここ30年、抑制の時代だった」参照)。政府は65年と69年、もともとは月額3000円程度だった厚生年金をそれぞれ同1万円、同2万円と、大幅に上積みした。

 大盤振る舞いの背景にあったのは高度成長期の到来だ。当時、厚生省に入省したての若手官僚で、その後、年金局長となった矢野朝水はこう振り返る。「厚生年金は額も少なく、企業からは大したものではないと見られ、『自分たちの退職金を充実させた方がいい』とさえ言われていた。このままでは厚生年金はいらないと言われ始めるのでは、という危機感が省内に渦巻いていた」。

「福祉元年」は「抑制元年」

 そこにあったのは、官僚達の「焦燥感」と高度成長で「増える税収・保険料」、そして年金で国民にアピールしたい「政治家」が絡み合う構図だった。これに田中角栄が乗った。

 「年金制度については、これを充実して、老後生活の支えとなる年金を実現する決意であります」

 悲願だった政権の座に就いた田中は72年10月の通常国会施政方針演説で、だみ声を張り上げ、国民を引きつけた。田中は翌73年、“約束”通り、厚生年金の給付を月額5万円へ一挙に2.5倍に増額。さらに物価や賃金の伸びに応じて支給額を増やす物価、賃金スライド制も導入した。同時に老人医療費の無料化なども実施。この年を「福祉元年」として大々的に打ち上げた。

年金はここ30年、抑制の時代だった
●公的年金の創立以来の歴史
年金はここ30年、抑制の時代だった<br/>●公的年金の創立以来の歴史
(写真=アフロ)
[画像のクリックで拡大表示]

 一方で財源の確保は真剣味を欠いた。保険料率(男性)の引き上げ幅は、6.4%から7.6%へとわずか。当時、田中のそばにいたある官僚は述懐する。「財源を心配する雰囲気はなかった。高度成長の中で、税収も保険料も増えていくから大丈夫だという感じだけだった」。

 今にして思えば、この「元年」が拡大の時代のピークだった。この年、第1次石油ショックが世界を襲い、以後景気は急速に悪化。狂乱物価が日本を苦しめた。しかし導入した物価スライドの影響などで、年金額は76年には9万円、80年には13万円に増えた。

 長い上り坂がある日、突然、下り坂に変わったものの、その下落が長く続くとは思えなかったのだろう。厚生官僚の一部には、将来の年金財政を危ぶむ声が出てきたが、ほとんど相手にされなかった。

次ページ 2004年改革、怒声で尻すぼみ