(日経ビジネス2015年8月24日号より転載)
厚生年金が現在の形になって約70年。その歴史は2つの時期に分けられる。1970年代前半までの給付拡大の時代と、80年代半ば以降の抑制の時代だ。約30年間続く「抑制改革」は先送りの連続で、財政の重荷は増すばかりだ。
(写真=左:kyodonews/amanaimages、右:アフロ)
山口県萩市。今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台ともなった明治維新の町は、人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36%(2013年)と、県内13市で最も高い。
県の高齢化比率も全国4位。一方で総人口は、県、萩市とも1980年代から本格的に減少を始め、以後上昇に転じたことがない。国全体の課題である人口減や高齢化の未来図ともいえる地域なのである。その「高齢化先進地区」で年金を巡る嘆き節が聞こえてくる。
「ものを買うのはぎりぎりまで抑えるようにし始めた。ワシは髪を染めるのをやめたし、商店に行くこともめったになくなった」
萩市小川地区で、果樹園などを営む山岡良夫(75歳、仮名)はあきらめ顔でそう語る。隣にいる妻の寿美子(66歳、同)も「高い服はもう買えないから、安い衣料品チェーンに行くだけ」と言う。
山岡の収入は年間200万円ほど。しかし、その半分以上は肥料や農機具代に消えるから「頼りは年間60万円の国民年金しかない」と言う。
月5万円ほどしかないのに、追い打ちがかかった。一昨年から「特例水準の解消」と呼ばれる引き下げが実施されたため、年金給付額が毎月2000円近く減ったのだ。公的年金は物価連動で給付額を増減することになっているが、政府は物価が下がった2000~02年度に特例で給付を減らさないようにした。
「特例水準の解消」とは、本来より上がっている給付額をこの3年で無くすという措置だ。「納得はできないが、生活を守るために消費を抑えざるを得ない」と山岡は顔を曇らせる。
今、給付の抑制は特例水準の解消にとどまらない。会社員などを対象にした厚生年金の1階部分と国民年金は、支給開始年齢が2001年から段階的に引き上げられ、男性は2013年以後、65歳になった。さらに今年は、年金の給付水準を現役世代の人口減や平均余命の伸びなどに応じて調整するマクロ経済スライドと呼ばれる仕組みが、初めて発動され、給付額は減る見通しだ。
こうした目減りが高齢者の消費減退をもたらし、地域経済に影響を与え始めている。上の表は、公的年金の総額が、個人の消費支出や県民所得に占める比率の高い都道府県。消費や所得の2割前後を年金が支える地域も少なくない。一方、この比率が最も低いのは東京都の11.4%で、2番目は人口増の続く沖縄。神奈川、埼玉、千葉、愛知の各県が13~15%と続き、大都市と過疎化の進む地方との間にはっきりとした差がついた。しかも、上位の島根、山口、兵庫、佐賀、岐阜県などの2001年の比率は15~18%台程度。大都市との差は加速度的に開いている。
年金が個人消費の4分の1を占める県もある
●年金の個人消費、県民所得に対する比率上位地方
注:各都道府県の公的年金総額(厚生年金、国民年金受給額の合計)が民間最終消費支出や県民所得に占める比率を見た。個人消費は民間最終消費支出
出所:県民所得、民間最終消費支出(2011年)、高齢化率(2013年)、厚生年金・国民年金受給額(2011年)などを基に本誌作成(写真=アフロ)
地方経済の中で年金の存在感が大きくなる中での給付減は、日本経済を揺さぶる。2014年の全国の高齢者世帯(60歳以上、単身)の消費支出は、前年比0.9%減ったが、賃金が上昇し始めた現役世代(勤労者世帯)は0.1%減にとどまる。景気が上向いても、地方に波及しにくい変化の裏にはこれがある。
年金の70年は「拡大」と「抑制」
戦後70年。国民生活の中で年金は次第に大きな存在感を持つようになっている。高齢化の進展とともに、老後を支える大きな柱として意識されてきたからだ。その年金給付が縮小を始めたのは日本経済の停滞のせいだけではない。その裏には“先送り”の歴史がある。
年金の歴史は、元首相の故・田中角栄が厚生年金の給付額を、それまでの倍以上の月額5万円に引き上げた1973年をピークとして戦前から70年代末まで続いた「拡大の時代」と、一転して80年代半ばから始まった給付「抑制の時代」に分けられる。
「拡大の時代」は「年金給付競争の時代」とも言い換えられる。日本の年金制度は、明治の初めにできた軍人恩給がその出発点だ。その後、船工場の労働者を対象にした年金が42年にできた。これが44年にホワイトカラーまで対象が広げられ、54年に今の厚生年金の原型ができた。
その過程で、公務員などの共済組合の一部が厚生年金から分離して独自に充実策を図り始めたり、一部の市町村が「我が町の住民にも年金を」と、70歳以上の高齢者を対象に慰労年金を創設したりもした。年金の乱立である。
これが政治家を刺激した。工場労働者や公務員などの年金が増えるのに、自営業者や農漁業者は空白地帯に置かれたからだ。
58年1月29日、国会冒頭の施政方針演説で首相の岸信介はこう宣言した。「全国民を対象とする国民年金制度を創設するため調査に着手しました」。
当時は、自民党と旧社会党が競い合う「55年体制」が成立して間もない頃。岸の施政方針演説の4カ月後には総選挙が行われたが、「選挙に勝つには年金の充実しかないという雰囲気だった」。厚生省(現・厚生労働省)で後に事務次官となった吉原健二はそう振り返る。選挙で自民党は勝ち、国民年金法が59年に成立。国民皆年金がスタートした。
すると今度は厚生年金が手厚くなっっていった(年表「年金はここ30年、抑制の時代だった」参照)。政府は65年と69年、もともとは月額3000円程度だった厚生年金をそれぞれ同1万円、同2万円と、大幅に上積みした。
大盤振る舞いの背景にあったのは高度成長期の到来だ。当時、厚生省に入省したての若手官僚で、その後、年金局長となった矢野朝水はこう振り返る。「厚生年金は額も少なく、企業からは大したものではないと見られ、『自分たちの退職金を充実させた方がいい』とさえ言われていた。このままでは厚生年金はいらないと言われ始めるのでは、という危機感が省内に渦巻いていた」。
「福祉元年」は「抑制元年」
そこにあったのは、官僚達の「焦燥感」と高度成長で「増える税収・保険料」、そして年金で国民にアピールしたい「政治家」が絡み合う構図だった。これに田中角栄が乗った。
「年金制度については、これを充実して、老後生活の支えとなる年金を実現する決意であります」
悲願だった政権の座に就いた田中は72年10月の通常国会施政方針演説で、だみ声を張り上げ、国民を引きつけた。田中は翌73年、“約束”通り、厚生年金の給付を月額5万円へ一挙に2.5倍に増額。さらに物価や賃金の伸びに応じて支給額を増やす物価、賃金スライド制も導入した。同時に老人医療費の無料化なども実施。この年を「福祉元年」として大々的に打ち上げた。
年金はここ30年、抑制の時代だった
●公的年金の創立以来の歴史
(写真=アフロ)
一方で財源の確保は真剣味を欠いた。保険料率(男性)の引き上げ幅は、6.4%から7.6%へとわずか。当時、田中のそばにいたある官僚は述懐する。「財源を心配する雰囲気はなかった。高度成長の中で、税収も保険料も増えていくから大丈夫だという感じだけだった」。
今にして思えば、この「元年」が拡大の時代のピークだった。この年、第1次石油ショックが世界を襲い、以後景気は急速に悪化。狂乱物価が日本を苦しめた。しかし導入した物価スライドの影響などで、年金額は76年には9万円、80年には13万円に増えた。
長い上り坂がある日、突然、下り坂に変わったものの、その下落が長く続くとは思えなかったのだろう。厚生官僚の一部には、将来の年金財政を危ぶむ声が出てきたが、ほとんど相手にされなかった。
「抑制の時代」が始まったのは、それから10年以上たった後である。86年の基礎年金の導入だ。それまでサラリーマンが加入する厚生年金と、自営業者らが加入する国民年金は全く別の制度だった。基礎年金の導入は、この別物の年金制度の一部を一体化するというものだった。1階の基本部分と2階の報酬比例部分からなる厚生年金の基本部分と国民年金を一体化して基礎年金としたのである。
「国民年金と厚生年金、共済年金など、制度が分かれて給付内容や保険料率などに大きな差が生じているので、公的年金の格差を解消するのが目的だった」と吉原は言う。しかし、その裏にはもう一つ別の理由があった。
真の背景は国民年金の危機である。80年代に入って、日本は急速な人口の高齢化と、それに伴う社会保障費の膨張という新たな事態に見舞われた。高齢化率は70年頃にはまだ7%だったが、10年後の80年には9%に。そして、すぐに2桁の10%も超えていくことが分かってきた。しかし「拡大の時代」に給付を膨らませたため、年金の総給付費が激増した。70年まで1兆円に満たなかったのに80年には10兆円へ、わずか10年で10倍に急膨張したのである。
2004年改革、怒声で尻すぼみ
年金給付費の急増がまず財政を直撃するのは、相対的に所得の低い層が多い国民年金。当時、厚生省年金局にいたある中堅幹部が声を潜めて言う。「その頃は、国民年金を救わなければならないという思いが強かった」。悪化し始めていた国民年金財政を安定させるために、厚生年金の1階部分と一体化させ、厚生年金側の財源を使えるようにしようというわけだ。体のいい財布の使い回しである。
「抑制の時代」に入って最初に打ち出された改革は、保険料引き上げという本質的な対策ではなかった。取りやすい所から取るという手法である。改革と銘打ちながら、目的と手段はすり替えられた。
年金改革にとっての痛恨事は、年金財政の改善に大きな効果のある年金支給開始年齢の引き上げが遅れたことだという指摘もある。80年頃、厚生省年金課の課長補佐を務めていて、後に宮城県知事となった浅野史郎は、その当時、15~65歳の生産年齢人口と、それ以外の高齢者などの従属人口の比率を調べていて確信したという。「60歳の引退(定年)はもう続けられない。65歳まで延ばす必要がある」と。
厚生省年金局は80年に「支給開始年齢引き上げ」政策を打ち上げたが、自民党の強硬な反対で間もなく頓挫した。
ようやく実現したのは94年のこと。ただし厚生年金の1階部分だけ。2階の報酬比例部分の支給開始年齢引き上げが決まったのは、矢野が年金局長だった2000年になってからだ。80年に支給開始年齢引き上げを言い出してから実に20年がたっていた。
公的年金の給付額は減り続けている
●1カ月当たり年金給付額の推移
注:世帯主が60歳以上の無職世帯のデータを使った
出所:家計調査を基に本誌作成
抜本的な対策が遅れ、年金財政は好転しない。むしろ悪化の道をたどった。2002年になると新しい人口推計が出て、さらに少子高齢化が進むことが分かり、再び対策が必要になった。
「この前の改革で大丈夫だと言ったじゃないか」。当時、厚労省年金数理課長だった坂本純一(現・野村総合研究所主席研究員)は、自民党厚労族のボスたちに、こう怒鳴り上げられた。
その怒声とともに始まったのが、自民・公明両党が「100年安心」をうたった2004年の改革だった。この改革は、それまでの発想を一転させた点では画期的だった。
「従来の給付抑制と、保険料率引き上げ中心の方法はもう限界にきている」(東京大学教授で厚労省年金部会長だった宮島洋)として現役世代の負担能力に合わせて給付を抑制しようとした。
マクロ経済スライドに加え、①厚生年金保険料率を2017年までに18.3%に引き上げて固定する上限設定方式の導入②基礎年金の財源の国庫負担比率を3分の1から2分の1へ、が柱だ。
しかしこれも結局、制度の要であるマクロ経済スライドの発動が大幅に遅れたため、年金財政の好転にはつながっていない。
そこにある危機が分かっているのに、見て見ぬふりをする。30年以上にわたる不作為は、「年金が本当にもらえるのか」という不安と、国家財政の破綻懸念を膨らませた。だが、それは歴史ではなく、今なお続く物語である。
=文中敬称略
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