様々な分野で価格が急激に下がり、新興企業の強烈な挑戦に先進国の大企業は苦境に追い込まれた。

 この変化は、牧本のさらに次の世代の経営者の時代に、もっと激しく日本型経営を揺さぶった。

 「1000億円の赤字だったDRAM(汎用メモリー)から99年に撤退した。もうもうからないものはやれなかった」

富士通の社長時代は事業再編に追われた秋草直之顧問(写真=柚木 裕司)

 98年6月から5年間、社長として富士通を率いた秋草直之は就任した翌年、半導体事業に大なたを振るった。市況の暴落で赤字が続いたためだったが、結果としてその決断は遅かった。同社を含め、日本のDRAMメーカーは、80年代半ばには世界一のシェアを取ったが、その後、情報システムの中核が汎用コンピューターからパソコンに移ると、ついていけなくなった。

 「日本企業は汎用コンピューターで使われた長寿命・高品質で高価格のDRAMにこだわりすぎた。パソコン向けで求められる、品質が多少落ちても低価格なDRAM生産にいきたがらなかった」と技術ジャーナリスト、西村吉雄は失敗の原因をそう語る。

 市場の求めに応じないわけはない。しかし日本企業は品質にこだわりたがる傾向が強く、品質を保ったままで価格を下げる工夫をしようとするうちに時間を浪費してしまう。そして、価格優先で攻め込んだ韓国勢に敗れ去った。

 日本型経営には様々な側面がある。エズラ・ボーゲルが指摘した年功序列などの3要素ばかりでなく、「現場優先」もその一つだろう。それは日本企業の評価が急速に高くなった70~80年代に固まったものだ。例えば、パナソニックの谷井が育てたVTRはもともと、56年に米国で技術開発が始まっている。それが日本で花開いたのは、現場発の優秀なモノ作り力があったからだ。画像や音声を記録・再生するヘッドの精密加工や、その正確な回転、そして部品間のすり合わせといった精緻な技術が日本のVTRを世界に押し出した。

 いわばアナログ時代には、職人的な技術力が競争力の源泉だったわけで、だからこそ現場優先の思想が正しい経営とされた。そんな部門を複数抱える総合型企業が多い日本の場合、経営者が現場の意向を無視して利益優先で動かそうとしても、簡単にはいかない。