ところが、90年代に入ると状況は一変した。バブル崩壊とともに日本経済は坂を下り始め、日本企業とその経営は輝きを失っていった。

 谷井とその次の世代の経営者たちは、その変化の節目にいた。しかし、そこで目の当たりにしたのは、バブル崩壊といった単なる景気変動だけではなかった。それまで経済成長をけん引してきた日本型経営の強み自体が失われるという大変化だった。

 一体何が起きていたのか──。90年代に入る頃から本格化したのはパソコンの普及であり、インターネットの浸透だった。あらゆる情報と技術がデジタル化し、新興国でも規格化された機械を導入して、ネットに接続すれば、熟練工なしでも一定以上の品質のものが大量生産できる。そんな時代がここから始まった。

 画期となったのは、ネットの爆発的普及を促したウィンドウズ95が発売された95年である。

VTRをパナソニックの柱に育てた谷井昭雄・特別顧問(写真=菅野 勝男)

 谷井が同じ年に香港の倉庫で見た運送会社による電子機器組み立ても、そうした変化の一端だったのだろう。メーカーが他社から調達した部品やモジュールを供給し、組み立てから運送まで任せる水平分業である。

 谷井自身は72年からビデオ事業部長を務め、80年代にVTRを松下で最大のヒット商品に育て上げている。いわば強い日本の電機産業の時代に会社員生活の大半を過ごしてきた。変化を垣間見たのは、現役生活の最後の段階である。だが、数年後の経営者はさらに大きな変化を目の当たりにする。

 日立製作所で半導体の事業部長を務め、97年に専務となった牧本次生は、谷井より9歳下。ほぼ1世代若い牧本は2000年に日立を退社し、ソニーに移った。移籍後、友人でもあるスイスの半導体メーカー、STマイクロエレクトロニクスの技術担当役員から、こんな相談を持ちかけられた。「インドで1000人の半導体技術者を雇用しようと考えている。ネットを使って、本社と連動した開発体制を作ろうと思う」。

 新興国にネットが普及し始めて間もない頃。米国も本格普及して日が浅い。谷井が香港でモノ作りの水平分業が運送会社にまで及んだのに驚いた時からまだ数年。既に世界はソフト開発の本格分業にも動き出していた。

世代が下るほど経営は厳しく

 谷井が香港で見た風景、牧本が海外の同業者から持ちかけられた話。いずれのビジネスモデルも原型はパソコンの生産にある。パソコンは、米IBMが1980年代にOS(基本ソフト)や部品、CPU(中央演算処理装置)の仕様を公開してきたことで、モノ作りの流れが根底から変わった。OSで米マイクロソフト、CPUで米インテルなどの専門メーカーが次々と誕生。90年頃から台湾にEMS(電子機器の受託製造サービス)と呼ばれる組み立てだけを中心にしたメーカーが生まれてきた。この水平分業モデルが、携帯電話、DVDレコーダーやテレビへと広がり、幅広い業種に影響を及ぼし始めたのである。これは80年代末に水平分業が本格化した半導体も同様だった。