がん化を防ぐという最大の難関をクリア

 細胞を培養させるだけの筋芽細胞シートに比べ、iPS細胞から心筋細胞をつくるのは非常に困難な作業で、「ヒトのiPS細胞から心筋細胞をつくるのに3年かかった」と澤教授は話します。心筋細胞シートをつくるには、数億個ものiPS細胞が必要で、iPS細胞を目的の細胞にするためには、細胞を分化させなくてはなりません。細胞は分化することで皮膚、血管、脳、心臓などの専門の器官の細胞になります。

 例えば、澤教授がiPS細胞から心筋細胞をつくるには、iPS細胞を心筋細胞へと分化するように誘導する必要があります。体内では自然に行われる神秘的かつ緻密な「細胞の分化」を、人工的に行うためには分化を誘導する物質や手法が重要で、“心筋細胞をつくる緻密なレシピ”を確立させなくてはなりません。そして、最大の課題は、その過程で生じる細胞のがん化をいかに防ぐかということ。澤教授のチームはこの両方をクリアしたのです。

 iPS細胞が世の中に登場した当初、「iPS細胞はがん化する可能性がある」といわれていたのを覚えている人は多いのではないでしょうか。がん化するには大きく2つの理由があると考えられてきました。ひとつは、iPS細胞をつくる過程で細胞を初期化()するために入れる4つの遺伝子()が活性してがん化する可能性。そしてもうひとつが、iPS細胞を分化誘導させていく過程で生じる、分化しきれない細胞である「未分化細胞」ががん化する可能性です。

注釈
*初期化:細胞の初期化とは、他の種類の細胞にはなれない分化した体細胞を、何にでもなれる細胞(多能性幹細胞)に戻すこと。リプログラミングともいう。

*4つの遺伝子:細胞の初期化を誘導する因子として京都大学の山中伸弥教授が特定した遺伝子で、山中因子とも呼ばれる。2007年にヒトの皮膚細胞に4つの遺伝子を導入して皮膚細胞を初期化し、iPS細胞の作製に成功した。その後、安全性を高めるため、遺伝子の変更や、作製方法の改良が進んでいる。

 「どうしたら未分化細胞を残さず心筋細胞をつくれるかが大きな課題だった」と澤教授。試行錯誤のなかで、未分化細胞を除去する方法が見つかったのは、2年前(2015年)のこと。もともと悪性リンパ腫に対する薬剤として知られている薬の成分を用いることで、未分化細胞が除去できることがわかったのです。「これは画期的なことだった」と澤教授は話します。

 iPS細胞をつくる過程で起こるがん化については、サイラでより安全性の高いiPS細胞を作製する手法が開発され(これについては次回以降で詳しくお伝えします)、そして、澤教授が未分化細胞を除去する方法を発見したことで、大阪大学で研究中のiPS細胞由来の心筋細胞が「がん化する可能性」はほぼなくなったのです。「安全性の面で2つの難関をクリアした。慎重に慎重を重ねる必要はあるが、うまくいけば、年内に臨床研究をスタートさせられるだろう」と澤教授はいいます(←いまココ)。

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