栄枯盛衰が激しい時代を迎え、企業にとって、創業時の気持ちをどう呼び戻すかが大きな問題になっています。「開店当時の心構え」を社員にどう伝えていきますか。

伊藤:伝わりませんね。心構えなんてものは、言葉で語っても限界があります。私の母は東京の乾物屋の娘でして、根っからの商人の生き方を身につけていた。私、この母から随分いろいろなことを教わりましたが、それも言葉ではなくて、毎日、店で働く後ろ姿から教えられたものが大部分だったように思いますね。

 今の今まで夫婦喧嘩をして泣いていた母が、店にお客様が見えた途端、涙をふくともう笑顔になって応待している。「商売とは厳しいもんだ」と子供心にもそういう光景が焼きつけられたんですね。

そうすると、社員教育もやはり現場でのOJT(実践訓練)が中心になるのですか。

伊藤:いや、大切なのはどうも社員教育以前の問題だという気がしますね。家庭のしつけですね。小売業やサービス業にとって何より必要なのは、知識や頭の良さよりも、心の温かさなんですから。

 子供の頃に毎朝、母親が心を込めて作ってくれたご飯の味とか、玄関のゲタがいつもきちんとそろえられていたことだとか……。そういうものに息づいていた心の温かさを感じながら育ったかどうか。例えば店の品ぞろえなども、結局そこに行きつくんです。

「今のサービス業は愛情を忘れている」

消費者ニーズをくみ上げられるかどうかは心次第ということですか。

伊藤:ええ、お客の立場になって店を見てみれば、あるはずのサイズのうちの一つが品切れになっている、なんてことはすぐ気づくはずです。ところが実際には、そういうトラブルがしょっちゅう起きるんです。店長や担当者がお客様への愛情を忘れているからですよね。

 小売業やサービス業では、お客様に関心を持つことなしに発展はありえないんです。「心ここにあらざれば見れども見えず」と言うでしょう。逆に心があれば、市場の変化が自ずと見えてくる。若者が恋をしている時、他人の心がよくわかるようになりますね。あれですよ。

どうも、そういうしつけとなると、私も含めて家庭教育を怠っている親が多い。

伊藤:この頃は、サービス業が全体に逆立ちしているんですよ。どこでも、お客が我慢しなければならない仕組みになっている。

 小売店ではお客が店員に気を遣う、酒を飲みに行くとホステスに気を遣う、ゴルフ場ではキャディーさんに気を遣う(笑)。名門コースになると特にこれはひどい。私は名門コースに大事なお得意先はご案内しないようにしているんです。

そういう若者でも会社に入ってから鍛え直すことはできませんか。

伊藤:しつけようと思うと逃げちゃう(笑)。でも他人を自分の思う通りに変えようなんて考えるのも、これまた不遜ですしね。考えてごらんなさい。自分の女房や子供だって、思う通りにはならんじゃないですか(笑)。

しかし、否応なく、そういう若者に企業の将来を託さねばなりません。とすると、伊藤さんは先々にはあまり期待しておられない?

伊藤:そんなことはありません。彼らには彼らの、我々にはない良さがいっぱいあるんです。それを私たちが理解していないことが多いんですね。まあ、私でも、上下5歳年齢が離れると、もう理解が難しくなるのを感じますね。自分にはすべて分かるなんて思っちゃいけないんですよ。

【編集長傍白】

 売場面積2坪の洋品店から、小売業で利益ナンバ一ワンの量販店をつくり上げた経営者の考えは、なかなかしたたかである。「商品は売れなくて当たり前」が商売哲学の原点で、そこから売るための工夫が始まるのだ。客から文句が出れば、それが新しい市場の始まりと考え、転んでもタダでは起きない商人根性だ。だが、2坪時代の体験のない社員にこの哲学が伝えられるのかどうか。伊藤さんは「伝わりませんね」と達観したような言い方をするが、内心はいても立ってもおれない心境なのではないだろうか。

(日経ビジネス1983年11月14日号に掲載した記事を再編集しました。社名、役職名は当時のものです。)

 日本を代表する巨大流通コングロマリット、セブン&アイ・ホールディングス。長く同社を率いてきたカリスマ経営者の鈴木敏文氏が、2016年5月に、経営の表舞台から退いた。日本にコンビニエンスストアという新しいインフラを生み出した鈴木敏文氏。一人のサラリーマンは、どのようにカリスマ経営者となり、巨大企業を率いるようになったのか。そしてどんな壁に直面し、自ら築き上げた「帝国」を去ることになったのか。

 本書では2つのアプローチで鈴木氏の半生と退任の真相に迫った。1つは、鈴木氏本人の肉声である。日経ビジネスは鈴木氏の退任以降、延べ10時間に渡って本人への単独インタビューを重ね、鈴木氏自身に真相を語ってもらった。もう1つは、セブン&アイの「2人のトップ」を知ることである。鈴木氏本人と、イトーヨーカ堂創業者でありセブン&アイのオーナーでもある伊藤雅俊氏。鈴木氏は創業者である伊藤氏の信頼を勝ち取って幹部として台頭した。日経ビジネスは1970年代以降、およそ半世紀に渡って伊藤氏と鈴木氏の取材を重ねてきた。歴史を振り返りながら、「2人のトップ」の絶妙かつ微妙な関係がどのように誕生し、維持されてきたのかを解き明かした。

 戦後の日本を変えたカリスマ経営者、鈴木敏文氏。53年間のすべてを一冊に収めた。ぜひご一読ください。