
世界有数の流通コングロマリットを長く率いてきたカリスマ経営者、鈴木敏文氏。1963年に黎明期のイトーヨーカ堂に身を転じてから、トップの座を去るまでの53年間、日経ビジネスは彼の挑戦や奮闘、挫折を、常に追い続けてきた。そして2016年、カリスマ経営者のすべてをまとめた書籍「鈴木敏文 孤高」を上梓した。だが、書籍には収まりきらなかった珠玉のエピソードがまだ数多くある。イトーヨーカ堂創業者・伊藤雅俊氏の素顔から、鈴木敏文氏がそれぞれの時代に語った言葉まで。日経ビジネスが追った鈴木氏と伊藤氏の半世紀を、特設サイト「鈴木敏文 孤高」で連日、公開する。
今回公開するのは、日経ビジネス1983年11月14日号に掲載した伊藤雅俊・イトーヨーカ堂社長(当時)のインタビュー記事だ。時は、1985年のプラザ合意以前、強烈な円高やバブル経済が起こる前のこと。消費不況下でも衰えを見せぬヨーカ堂の高収益体質には、売り場面積2坪の洋品店時代から貫かれてきた、伊藤雅俊社長の商人哲学の神髄「恋する若者のようにお客様を愛する心」があった。「愛情のない人間に市場の変化は見抜けない」と指摘する一方、スーパー限界説を否定し、「問題があるところにこそ新しい市場が生まれる」と柔軟な発想の必要だと強調する。聞き手は本誌編集長、杉田亮毅(1983年当時)。(写真:的野弘路)
※社名、役職名は当時のものです。

1924年4月30日、東京都生まれ。1944年横浜市立商業専門学校(現横浜市立大)卒業。翌1945年、東京都足立区千住にあった家業の洋品店羊華堂に勤める。1958年ヨーカ堂を設立、社長に就任。1965年、社名をイトーヨーカ堂に変更。1973年にはデニーズ・ジャパン、セブン-イレブン・ジャパンを設立、それぞれの社長を兼務。1978年、1981年にはセブン-イレブン・ジャパン、デニーズ・ジャパンの会長に就任。この間、1978〜1980年には日本チェーンストア協会会長を務めた(写真:梅原 剛)
相変わらず、消費市場にはいま一つ明るさが見られず、業績不振に悩む小売企業も多いようですが、こんな環境にもかかわらず、イトーヨーカ堂は先頃(1983年当時)、前年比51%の経常増益という中間決算を発表しました。この好調の秘密を解き明かすために、改めて伊藤社長の経営哲学にさかのぼってお話をうかがおうと思っております。
伊藤雅俊氏(以下、伊藤):秘密と言われましても、別に突飛なことをやっているわけではありませんので、お答えに困るのですが、ただ、私は、消費が冷え込んで売れなくて困る、というような考え方は、商人としては間違っているんじゃないかと下の者に常々、言っているのです。
商品というのは、売れなくて当たり前なんです。ただ品物を並べておいて、それをお客様が買って当然、なんて考えるのは本末転倒している。そんな考えだから、ちょっと売れなくなると、「消費が不振で…」などと市場のせいにしたりして、不平や不満を言うようになるんです。
私どもが最初、2坪の店で商売をしていた頃のことを考えると、売れない日の連続でしたよ。最近の風潮がどこかおかしいんじゃないんですか。
「お客様が見えるのは年2回だけ」
東京・千住で、母上と社長のご兄弟が始められた洋品店のことですね。
伊藤:狭い店なのに、そこに置く商品がない。問屋さんが売ってくれないんです。まして、銀行がカネを貸してくれるわけはない。そんな状態だから、私などは、お客様の方から買いに来ていただけるのは年に2回の盆暮れだけ、普段はお客様はお見えにならないのが当たり前なんだと教えられてきました。
ないないづくしの中で、さあそれでは、どうやったらお客様に来ていただけるか、どうやったら商品を卸してもらえるか、と考えるのが商売の本来のあり方なんです。業績とは、そんな日常の心構えの結果にすぎないと思うんです。
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