一見「優柔不断」の部下操縦術

 関係者の中には、なかなか決断をしない伊藤を「優柔不断」と評する人もいる。しかし、この見方は伊藤の表面だけをとらえたものにすぎない。「伊藤さんは自信がないから決断しないと言われるが、それは間違い。決断を最後までしないことで、部下を追い込み、育てている」。昭和30年代(1955年頃)からヨーカ堂の店舗開発に携わってきた日本商業企画研究所社長の小笠原英一はこう語る。

 ヨーカ堂副社長の佐藤信武も、開発部長時代に、伊藤のもとに何度通っても新規出店の許可をもらえず苦労した経験がある。伊藤は会うたびに新たな問題点を指摘し、「このハードルをクリアできたら承認しよう」と言った。新規出店の物件の選定に当たっては、9勝1敗では失格、10戦10勝でなくてはならない、と教え込まれた。佐藤は、「事業に対する姿勢はとても厳しい。あたりはソフトだが、本当はとても怖い上司」と伊藤を評する。

 伊藤の部下を操縦する巧みさは、かねてから定評がある。能力のある人物にはどんどん仕事を回し、能力のない人物には自然と仕事を回さないことで淘汰してきた。能力のある部下に対しては、最後まで自分で仕事を全うすることを要求する。

 今回(1996年)のインタビューで、1991年3月にサウスランド社の再建を引き受けた経緯について、伊藤は「セブンイレブンというブランドを守るために救済した」と語っている。

 この話は鈴木の説明とは実は微妙に違っている。「再建に確信がもてるか」と問う伊藤に、鈴木が「4億ドル以上は投資しない。失敗したらなくなるが、授業料として考えてほしい」と言って説き伏せた。これが鈴木の説明だった。

 2人の話はともに事実だっただろう。しかし鈴木と話す前に、既に伊藤の腹は「救済」で固まっていた。その上で、あえて鈴木を追い込み、4億ドルという上限金額を考えさせた。この辺に、柔らかな物腰の奥に隠されたオーナーとしての冷徹な指導力の真骨頂がある。

「僕はいつでも、この場所からいなくなる」

 鈴木は、セブンイレブンで実績を上げ、1978年には伊藤に代わり、セブン-イレブン・ジャパンの社長に就任。1982年からセブンイレブンでの成功体験をヨーカ堂に導入するために、業革を始めた。当時、減益に苦しんでいたヨーカ堂は業革開始後、業績が回復し、鈴木も1983年に専務、1985年に副社長と、出世の階段を駆け上がった。

 「うちのおやじは仕事を任せてくれる。僕は、あの人の下だから仕事ができている」と鈴木は話す。しかし、伊藤のもとで働く経営者として、成功し続けなければならない宿命も背負っている。鈴木はそのことを誰よりも知っている。

 「オーナーが、僕のやり方がどうしても気に食わないとなれば、僕はいつでも、この場所からいなくなる。常に自分でそう思いながら仕事をしている」と漏らすこともある。

 この緊張感の中で、鈴木は成長した。子会社のダイクマ社長、森田茂文は「今の鈴木さんには、すさまじさを感じる。10年以上前に一緒に働いていた時の彼とは別人のようだ。サラリーマン経営者としてのプレッシャーが彼を育てたのだろう」と解説する。