1996年9月3日、鈴木は、北京で中国全土にチェーンストア展開をするために設立した合弁会社の仮調印をした。この中国進出に当たっても、最初の関門はオーナーの説得だった。ヨーカ堂社内でもごく限られた幹部しか知らないことだが、この件で2人は1994年7月にトップ会談を開いている。

 「中国に進出して大丈夫か。周囲の人間に聞いても、みんな危ないと言っているぞ」と慎重論を崩さない伊藤に対して、鈴木は「中央政府自らの申し出で、我々に対する期待も大きい。40億円以上は中国に投資をしない。この範囲でやらせてほしい」と食い下がり、何とか了承を取り付けた。

 1992年10月に発覚した総会屋への利益供与事件で社長から取締役相談役に一度は退いたとはいえ、伊藤のグループに対する影響力は衰えていない。実務を鈴木に預けたが、資産管理会社である伊藤興業などの株と合わせて発行済み株式の約15%の株を保有するオーナーであることに変わりない。重要事頃に関しては、オーナーとしての「拒否権」を待ち続けている。

 鈴木がグループ内での影響力を強めるにつれて、一部ジャーナリズムなどは伊藤と鈴木との確執を取り沙汰した。1992年10月に伊藤が引責辞任した時には、鈴木周辺の内部クーデター説さえ囁かれたほどだ。こうした見方は、オーナーとそのもとで働く経営者という2人の立場を見誤っており、正しくない。

伊藤氏と鈴木氏、それぞれの経営方針(写真:清水盟貴)

生粋の商人から一歩引いた視点

 伊藤と鈴木を知る人は、好対照の人物だと囗をそろえる。部下との接し方を例にとっても、話をよく聞き最後まで耳を傾ける伊藤に対して、鈴木はトップダウンで自分の意見を徹頭徹尾、通す。

 「責任は自らとる」という鈴木の美学、流通業界の中で突出した決算数字をあげている実績があるから、幹部クラスは不満を出さないが、伊藤流の手法に「郷愁」を持つ人もいる。

 2人の違いは、社会人としての出発点の違いからもきている。

 伊藤は、終戦直後の1946年、母と兄が東京・北千住で始めたわずか2坪の洋品店から叩き上げてきた生粋の商人。創業時代から伊藤に仕えているヨーカ堂副社長の森田兵三は、「顧客本位を貫く伊藤さんの商人道は、母親の影響が大きいと思う」と話す。

 使用人が3~4人しかいなかった羊華堂洋品店で、森田は伊藤の母ゆきから、お客様の立場で考える商人としての心構えを叩き込まれた。「前にお買い上げいただいた商品の具合はいかがでしたか」と、客に応対していたゆきの姿が忘れられないという。

 

 一方の鈴木は大学卒業後、大手の東京出版販売(現トーハン)で社会人のスタートを切った。同社では「新刊ニュース」という雑誌の編集作業を担当し、誌面内容を刷新、部数を5000部から13万部にまで増大させたが、小売業とは全く縁のない生活を送っていた。

 1963年に中途入社してからも、一貫して人事・管理畑に席を置き、テクノクラートとして歩んできた。ヨーカ堂にあって、販売、仕入れという小売業の現場に一切身を置いてこなかった。

 かくして顧客重視という点では共通する2人の思想も、具体的な発言になると、上に示したように表現は相当違ったものになる。

 関連会社、ヨークベニマル社長の大高善二郎は、こんな言い回しで2人の違いを指摘する。「伊藤さんは『お客様のために』だが、鈴木さんは『お客様の立場』なんだ」。伊藤の顧客重視は商人としての意味合いが強い。これに対し、鈴木は客の立場で企業が何をしなければならないかを考えている。小売業の現場から一歩引いた視点である。

 38歳で取締役に抜擢された鈴木は、1973年11月、セブンイレブンを展開する米国サウスランド社と日本でのエリアサービスおよびライセンス契約を結び、注目を浴びる。この時、鈴木はサウスランド社の幹部と対等にわたり合い、売り上げの1%のロイヤルティーを強硬に主張するサウスランド社から、最終的には0.6%まで下げることに成功した。

 「あれは日本の10銭ストア」

 この半年前の1972年7月、ヨーカ堂がコンビニエンスストア事業に取り出すかどうかについて、鈴木は伊藤とハワイで会談している。伊藤は、コンビニ事業への進出にあたっても憤重だった。「あれは日本の10銭ストアか雑貨屋に毛の生えたみたいなものだな。あんなものやっていけるのか」と渋る伊藤に、サウスランド社との交渉をまとめようと説得していた鈴木も、最後には「おやじさんがそこまで乗り気でないならば、断ってきますよ」と答えた。

その後、伊藤が漏らしたつぶやきが、セブンイレブンの誕生につながった。「今、ここでダメというのももったいないな。そこはあんたたちがよく考えて……」。この伊藤の言葉で、鈴木は「おやじは100%反対ではない。3割程度は脈があるかもしれない」と読み、サウスランド社との交渉をまとめたと後に述べている。