
世界有数の流通コングロマリットを長く率いてきたカリスマ経営者、鈴木敏文氏。1963年に黎明期のイトーヨーカ堂に身を転じてから、トップの座を去るまでの53年間、日経ビジネスは彼の挑戦や奮闘、挫折を、常に追い続けてきた。そして2016年、カリスマ経営者のすべてをまとめた書籍「鈴木敏文 孤高」を上梓した。だが、書籍には収まりきらなかった珠玉のエピソードがまだ数多くある。イトーヨーカ堂創業者・伊藤雅俊氏の素顔から、鈴木敏文氏がそれぞれの時代に語った言葉まで。日経ビジネスが追った鈴木氏と伊藤氏の半世紀を、特設サイト「鈴木敏文 孤高」で連日、公開する。
今回公開するのは、日経ビジネス1996年9月30日号に掲載した記事だ。この年、日経ビジネスは「強さの限界 イトーヨーカ堂」と題した特集を組んだ。1950年代後半から急成長を遂げた総合スーパー(GMS)は、日本の流通革命の担い手として脚光を浴びていた。伊藤雅俊氏の率いるイトーヨーカ堂は、ダイエーの中内功氏、セゾングループの堤清二氏と並んで、「流通三国志」のような世界で切磋琢磨を重ねてきた。バブル崩壊後、失速するダイエー、セゾングループを尻目に、ヨーカ堂だけが利益を若干減らしたとはいえ、ライバルに比べるとはるかに強い収益力を維持していた。強さの源泉は何か。掘り下げると、見えてきたのはヨーカ堂を支える2人の経営者の存在だった。(写真:的野弘路)
※社名、役職名は当時のものです。

「そんな簡単なことを、なぜしていないんだ。セブンイレブンでは先週からやっているぞ」
鈴木敏文の怒声がイトーヨーカ堂本社12階の細長い会議室に響きわたると、約160人の出席者は神妙な顔つきで次の鈴木の言葉を待つ。聞いているのは、ヨーカ堂の役員、部長、関連会社社長などグループの中枢を担う幹部ばかりだ。
毎週火曜日午後1時から開かれる業務改革委員会(業革)と呼ばれるこの会議には、いつも張り詰めた空気が充満する。役員でさえ、会議の席上、ほかの幹部の面前で厳しく叱責されることも珍しくない。
“鈴木ヨーカ堂”の拒否権者
今年(1996年)8月からは、業革の進め方を変えた。同年7月までは、あるテーマについて事前に発表者を決めておき、その発表について鈴木が講評する方法をとっていた。この発表方式を改め、会議の場で鈴木が出席者の中からランダムに相手を選び、「君の部署では、この問題についてどのような対策をとっているのか」といきなり聞くようになった。
会議に参加している幹部の立場からすれば、突然、どんな質問が来るか分からない。しかも、「今、具体的に何をしているか」という形で問われるので、日頃の実践が重要になる。ある幹部は、「8月になってから、格段に業革の緊張感が高まった。毎週火曜日がくるのが正直怖い」とこぼす。
従来方式ではわずかに残っていた現場からのボトムアップの部分がなくなり、業革は完全にトップダウンによる「変革命令」の場となった。下からの変革は不可能と説く鈴木らしい。
「“伊藤ヨーカ堂”が“鈴木ヨーカ堂”になった」。ライバル会社のある幹部はこう揶揄する。業革での鈴木のリーダーシップを知れば、あながち間違った見方でないと分かる。それほどヨーカ堂グループでの鈴木の存在感は大きくなっている。
だが、業革の場では絶対的な権力者である鈴木も、グループ、あるいはヨーカ堂の戦略を左右する重要な決定にあたっては、必ずオーナーである名誉会長、伊藤雅俊の判断を仰ぐ。
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