
世界有数の流通コングロマリットを長く率いてきたカリスマ経営者、鈴木敏文氏。1963年に黎明期のイトーヨーカ堂に身を転じてから、トップの座を去るまでの53年間、日経ビジネスはこの男の挑戦や奮闘、挫折を、常に追い続けてきた。そして2016年カリスマ経営者のすべてをまとめた書籍「鈴木敏文 孤高」を上梓した。だが、書籍には収まりきらなかった珠玉のエピソードがまだ数多く眠っている。イトーヨーカ堂創業者・伊藤雅俊氏の素顔から、鈴木敏文氏がそれぞれの時代に語った言葉まで。日経ビジネスが追った鈴木と伊藤の半世紀を、特設サイト「鈴木敏文 孤高」で一挙に公開する。
今回公開するのは、日経ビジネス1973年1月8日号に掲載した記事だ。1974年、日経ビジネスはイトーヨーカ堂の創業者である伊藤雅俊社長(当時)の人物ルポルタージュを掲載した。この時の伊藤氏は48歳。ヨーカ堂はスーパー業界6位。「ご用聞きの精神が商売の本道。お客様の言われる通りに、お客様の喜ばれるように、骨身を惜しまず体を動かす」。江戸時代の丁稚や小僧に言うような商人哲学を、高度経済成長の真っ只中に説く伊藤氏。実はこの“商人道”こそ、当時のヨーカ堂の強さの源泉だった。「“木製人間”の集まりにしたい」「乾物屋精神を注入する」といった独特の言葉で、理想を語った伊藤氏。一介の洋品店から身を起こした半生はどのようなものだったのか。(写真:的野弘路)
※社名、役職名は当時のものです。

「イトーヨーカ堂は静かに進出して、しかもジワジワとお客を食ってしまう」。ある大手ビッグストアの営業担当重役は、ため息まじりに語っている。しかし、こうした声に対して、当のヨーカ堂では「その原因は自分たちでも分からない」と言う。伊藤雅俊社長は、「あえて言うなら、当たり前のことを当たり前にやっているからでしょうか」という程度である。
しかし、その当たり前のことの裏には、「お客を忘れた商売があまりにも多い」咋今のあり方に対する批判が込められているようだ。それは「ビッグストアが儲かるから店を開くこと以前に、商売をする精神が欠けていたのではないか」ということのようだ。
子供心にしみついた父母の“商人道”
「商売とは、とりも直さず、お客にあらゆる点で喜んでもらうこと」だと考える伊藤氏は、「セルフサービスはノーサービスではない」と言う。セルフサービスで安いものさえ売ればいいという考え方には、商売がないというわけである。
商品に少しでもホコリがたまっていては、お客に失礼である。無愛想な顔でお客に接することは、最も無礼である。こんなことは、どこの小売店の経営者でも、社員に言い聞かせていることだ。しかし、この平凡なことを徹底して実行しているところは、ほとんどと言っていいくらいないのが現状である。
伊藤氏は大正13年(1924年)、東京・千住で生まれた。家業は、潰物の小売り屋をやっていたが失敗し、乾物屋となり、終戦直後に洋品店を始めた。子供の頃から、店先に立つ父や母を眺めて暮らしてきただけに、商売の現実を肌でもって体得してきたと言える。
「母の後ろ姿が、今でもはっきりと目に浮かぶ」と言う。夫婦喧嘩をして涙を流している時でも、お客が来ると涙をふいて、何事もなかったように笑顔で応対している姿である。父親が亡くなって、家業は兄の譲氏が継ぐ。ぜんそく持ちの譲氏は、雨降りの時など、兵隊合羽を着てご用聞きに回るが、帰ってくる時には、肌まで雨がしみ込んでいるという状態で、持病を一層悪くした。不景気の頃で、お客には好きなように言われる。どんなことを言われても、その要求に応えるように飛び回っていた兄の姿も忘れられないと、伊藤氏は語る。
2000人に“乾物屋精神”注入
昭和19年(1944年)、横浜市立経済専門学校を卒業した伊藤氏は、三菱鉱業に入社、2カ月で兵役、終戦で復職、3カ月ほど勤めたが「サラリーマンよりやはり商売が好き」と退社。兄・譲氏の洋品店に入った。昭和31年(1956年)、譲氏の死去でこれを継ぎ、 昭和36年(1961年)からチェーンストアの展開を始めた。言わば、生まれてから一貫して商売の中で育ち続けてきた人である。
Powered by リゾーム?