慶応義塾大学大学院経営管理研究科(慶応ビジネス・スクール)が次世代の経営の担い手を育成すべく、エグゼクティブ向けに開設する「Executive MBA」。10月の経営者討論科目に登壇した日本IBMの下野雅承取締役副会長は「経営変革とリーダーシップ」をテーマに講義を行った。
授業の後半では受講者との間で質疑応答を行った。外部の開発会社が納入したシステムへの不満を指摘する受講者の声に対し、日本の雇用環境がIT分野のスペシャリスト不足という問題を生んでいる背景から説明。そのことがITコストの高止まりを招き、日本企業の競争力を削ぐことにもつながるという危機感を示した。
(取材・構成:小林佳代)
下野雅承(しもの・まさつぐ)氏
日本IBM取締役副会長
1953年生まれ、大阪府出身。78年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。同年日本IBM入社。技術・サービス部門を中心に担当し、92年米IBMコーポレーション出向。2001年取締役就任。2003年常務執行役員、2007年専務執行役員を経て2010年取締役副社長執行役員製品サービスオペレーション担当に就任。2016年最高顧問に。2017年5月から現職。(写真:陶山 勉)
受講者:今、会社で使っているシステムに不満を持っています。我が社がお付き合いしているシステム開発会社さんは、我々が理解しにくい形でシステムを売ってくるのです。我々が使えないようなもの、不要なものまで作り込んだ上でです。IT業界には同様の問題があるのではないかと推察していますが、この件についての下野さんのお考えをお聞きしたいです。
下野:システム構築の業界に詳しいある日経の記者の方が指摘されていましたが、日本では、SE(システムエンジニア)が100人いたとしたら、システムの開発企業側に70人いて、ユーザー側に30人いるというバランスだそうです。一方、米国ではユーザー側に70人いて、システムの開発企業側に30人いる。つまり、米国の企業はシステムの開発企業側に依存せずに、自分たちでシステムを設計したり運営する傾向が強いのです。日本では、本来、ユーザー側がやるべき仕事を、システムの開発企業側に委託する構造になってしまっています。
どうしてこうなったかというと、主に雇用環境に原因があります。日本の場合は1度社員として雇うと簡単には辞めさせられません。しかも就職ではなく就社なので社員をいろいろな部署にローテーションさせながら育成します。IT部門が必要なスキルやその量が大きく変化する中、常に正社員でそれをまかなうことは、日本の労働慣行の中では難しい。
実装すべき要件を定義して、システムを設計、開発する…というプロセスを当初はユーザー側の社内で行っていたとしても、ユーザー側の担当者がローテーションでどんどん変わり、稼働中のシステムの要件や設計などを理解できる人も減っていってしまう。ずっといてくれるのは外部の開発企業の人だけ….。その結果、外部のシステム開発会社に全面的に委託せざるを得ない形になってしまうという話をよくお聞きします。
日本企業では「就職」ではなく「就社」ですから、CIO(最高情報責任者)のような専門性を要求される役職も、社内のローテーションで任命されるケースが多数見受けられます。「就社」ですから社内の人脈や部門間調整では卓越されているでしょうが、ITの専門家ではないので、その会社全体のITのアーキテクチャーをしっかり方向付けて組織全体をドライブするということは不得手です。「A社には長年人事システムを見てもらっているので継続して発注しよう」「取引全体のバランスを考えて生産管理のシステムはB社だな」などとなりがちです。これでは全社最適での費用対効果の高いシステムを構築し、適切に活用することはなかなか難しいでしょうね。専門性の高いCIOがIT部門を束ねているケースの多い米企業などとの差は大きいのです。日本企業の競争力の上でも今後、大きな課題になるのではないかと思っています。
構造変革のスピードは遅い、クラウド化の進展に期待
受講者:私は今、企業のIT部門に所属しています。まさに今、お話があったように、私たちはシステム開発会社に3割をゆだね、自社内で7割を行うスタイルにしたいと思っています。社内のシステム要員でオペレーションができるIT部門にしようと組織改造をしてきたところです。
その中で一番ハードルが高かったのは、やはり人材の問題です。日本には人材の流動性がない。エンジニアを雇おうと考え、年間150人ぐらいの面接をしましたが、なかなか適任者が見つかりません。結局、現時点ではある一部だけを社内のシステム要員で設計・運用するにとどまっています。
ただ、先ほどおっしゃっていたように、海外と比べてこのように偏った構造があると、日本では企業を経営していく上でITコストが非常に大きくなってしまう傾向があります。グローバルに激しい競争を繰り広げていく中でこれは大きな障害です。早く変革が進まなくては日本経済にも悪影響です。下野さんはこうしたIT部門の構造改革は、今後どういうスピード感で進むと考えていらっしゃるでしょうか。
下野:まずは、日本の現状ではまだまだ中途で優秀な社員を確保することは容易ではありません。また、データベースのプロみたいな30歳くらいの人材が金融機関などの正社員として人生設計をするのもなかなか困難です。もちろんIT分野を専門に担当する子会社では道は開けますが。プロジェクトの山谷や技術の変遷というタレントの変動性を社員で充足するのは大変難しいですので、お悩みはよくわかります。
また先ほどお話したように、例えば、CRM(顧客関係管理)はA社、ERP(基幹系情報システム)はB社という具合に、いろいろなベンダーに開発を委託します。その結果、システム開発会社ごとの異なる仕組み(設計技法、ミドルウェアなど)が入り組み、全体を見ると“スパゲティー状態(異なるシステムが絡み合って、改修やメンテナンスが生産的でない構造)”になってしまっている。こうなると、一番手間がかかるのがテストです。コードを数行変えただけでもテストに膨大なワークロード(作業負荷)がかかることが起こり得ます。僅かな変更であっても、その結果について、膨大な可能性(テストパターン)を確認しなくてはいけなくなってしまうのです。
こういうことをやっている限り、ITコストは膨らむ一方です。おっしゃる通り、この構造が今、日本企業の足を引っ張る要因になり得ると思います。あなたの会社は時代の変化を待つ方針だとのことですが、残念ながら、この問題は日本固有の雇用形態や人材の流動性にも依存しているので、日本のIT分野での人材の構造改革はそんなに早く進まないのではないかと思います。
今後の可能性として期待できるのはクラウド化です。特にクラウド上のSaaS(アプリケーション)をどう活用するかが、ひとつの大きな解決への道筋ではないかと思います。
「社内のシステムが、いわゆる“スパゲティー状態”になってしまうと、テストをするにも膨大な時間がかかってしまい非効率です」
“IBM流”の良さを、お客さまに理解していただく
受講者:IBMは近年、「真の“グローバル統合企業”(グローバル・インテグレーテッド・エンタープライズ:GIE)」という言葉を盛んに使っています。しかし、さきほどのお話にもあったように、日本市場は企業内のシステム構築のバックグラウンドも異なり、世界標準の形になりにくい面があると思います。GIE戦略は日本市場にはマッチしていない部分もあるのではないかと推察していますが、経営者として、その点をどう感じているかをお伺いしたいと思います。
下野:IBMは事業や地域を横断して経営資源を一元化し、真に統合されたグローバル企業(GIE)になると宣言しています。世界中に展開する活動拠点を統合・最適化し、迅速な意思決定、事業展開をしていこうというものです。この観点では、英語力や時差という日本人の抱えるハードルは結構高いです。ただ、今の新入社員の英語力は随分上がってきましたし、ITの活用で距離や時差の問題も部分的かもしれませんが解決策があります。
また、IBMではM&A(企業買収)をした後も、PMI、ポスト・マージャー・インテグレーション(M&A後に統合効果を最大化し、企業価値を向上させるための統合プロセス)では、1年ぐらいの短期間でお客様との契約書の書式から経理処理の勘定科目まで統一していきます。ものすごいスピード感です。そういうスピード感から、その会社のお客様や社員に反発を買うこともあります。
当然、それとは別のやり方もあります。例えば、NTTデータさんはグローバル売上高比率を50%に高めると宣言していらっしゃいましたので、海外でのM&Aは重要な戦略でしょうが、おそらく時間をかけて緩やかに統合されていくのではないかと予想しています。製品やサービスの統合や重複機能の削減などによるフィナンシャルリターンは直ぐには出ないかもしれないけれど、社員やお客様にとっては自然です。どちらが良いとか悪いではなく、考え方の違いですね。
日本IBMの施策の中には、日本の商習慣にフィットしないものもあるかもしれません。それがマイナスになることもあるでしょうが、我々の良さは我々が率先してグローバルに対応することで、グローバル化される日本のお客様にとってきっとプラスになることも多いと考えています。たとえ国内でしか事業展開されていない会社でもこれはお役に立つと思っています。
12年単位の「ステージ」に分けて考える
受講者:下野さんは48歳で取締役になられています。大企業の役員になる年齢としては、非常に若いですね。それを踏まえて、我々受講者に「若い頃にはこれをやっておくといい」というようなアドバイスがあればぜひ教えてください。
下野:私は24歳で会社に入り、60歳で定年退職するつもりでした。結局、63歳の今もまだ会社にいますけれど。24歳から60歳までで36年間。干支でいうと3周です。私はその36年を「ステージ1」「ステージ2」「ステージ3」と呼んで、干支と同じ12年単位で整理して若い社員にアドバイスをしています。
ステージ1では、「どうしたらライバルに勝てるか」とか、「どうしたらお客さんの決済がスムーズに進むか」といった学校や会社の研修では教えてくれない実践スキルをハンズオンで自然と身につけました。IT業界で生きていくためのファンダメンタルズ(基礎)を実地訓練で学びました。
この自分の経験から思うのは、ステージ1では1つの仕事をやり尽くした方がいいですよということです。あまりちょこちょこ変わらずに。最初に配属された組織には、陽の当たる部門とそうでない部門とがあるでしょうが、まずはひとつの部署で頑張って信頼される社員になることです。その会社におけるビジネスプラクティスとか、ビジネスのファンダメンタルズをしっかり身につけるべき時期だと思います。
ステージ2はビジネスパーソンとして一番成長する時です。私の場合、非常にラッキーなことにその最初の2年半、米国本社に行かせてもらいました。帰国後は新規事業の担当になりました。新規事業というと聞こえはいいけど、すぐには儲からない分野です。当時、会社の中ではどちらかといえば傍流の部門でした。他の本流の部門への異動をお願いしようかと思いましたが、米国から帰ってきたばかりでしたし、ちょっと我慢してやってみるかと思い直しました。そうしたら、3年目か4年目に新規事業が立ち上がって、数十億円しかなかったビジネスのサイズが、数年後には百億円以上まで拡大しました。それで波に乗って、その後はメーンストリームのビジネスを含め、いろいろな経験をさせてもらいました。結果的に様々な視点で物事を見られるようになりました。新規事業で悪戦苦闘したことで人の確保、活用の仕方なども大いに勉強になりました。
ステージ3は組織の長として人と業績のマネジメントを担当しました。最後の12年間の過ごし方は人それぞれだと思いますよ。みんながみんな経営者になれるわけではないので、ある分野のエキスパートとして突き抜けるのも1つの方法だし、仕事中心の生活だけではなく定年後へのスムーズな移行を考えてステージ3を過ごすというのも1つの生き方です。
以上をまとめると、最初の12年は歯を食いしばって、与えられた仕事に不平を言わずに1つのことをやり遂げる。
でも、次の12年は少しわがままを言ってでも、いろいろなことを経験する。
最後の12年は、人それぞれの価値観で人生を決めていく。
私からアドバイスできるとしたら、そんなことかな、と思います。(了)
「ビジネスキャリアの最後のステージは、人それぞれの価値観で決めていく」(写真:gajus / 123RF)
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