リストラで退職することになった日本電子の社員とひとり一人と労働組合の委員長として面接したつらい経験が、経営者としての原点になっています。
リストラで退職することになった日本電子の社員とひとり一人と労働組合の委員長として面接したつらい経験が、経営者としての原点になっています。

自主再建のメドが立ち、「日本電子」労組委員長を退任

 合理化策を遂行した日本電子では社員の3分の1が去り、会社のことをよく知らない経営者が銀行などから送り込まれました。社内は大混乱です。そこで一時的ではありますが労組が社内の求心力を持とうと奮闘しました。

 その時、私は「自主再建しよう」というスローガンを立てて社員のモチベーションを引き上げました。日本電子は三菱系の会社ですから、三菱グループの同業会社と合併してはどうかという案がチラホラ聞こえてきました。なんとかそれは避け、自分たちの力で再生を果たそうと社員が一致団結しました。

 会社にとどまった3分の2の社員も当初は年収25%減の状態で働かなくてはなりませんでした。去るのが地獄なら残るのも地獄でした。そういう中で、自主再建を果たそうと一人ひとりが踏ん張り、なんとか業績を立て直しました。銀行から送り込まれた社長に代わって生え抜きの社長が就任し、自主再建のメドが立ったのを機に、私は労組の委員長を退任しました。

米国でも破綻処理を任され、修羅場を経験

 その後、会社から命じられたのは米国への転勤でした。米ニュージャージー州にある米国法人の支社が業績不振で大変な状態にあるからと、その破綻処理を任されたのです。ここでは、ドライな米国式経営に徹しました。支社閉鎖を決め、日本人駐在員は帰国してもらいました。その上で「現地社員全員解雇」「全事業売却」という荒療治を行いました。この間、2回ぐらい胃潰瘍になりましたね。

 その後はボストンの米国法人本社で支配人を務めました。この時期、米国法人本社は米ソ冷戦の終焉で軍事費が縮小したあおりを受け、一時期100億円以上あった売り上げが60億円台にまで落ち込んでいました。このままなら大赤字に陥ることが明らかだったため、経営立て直しに走りました。

 それまでの米国法人本社は典型的な日系企業。社員みんな横並びでお互いにもたれ合い、なあなあの雰囲気が蔓延していました。居心地が良いから誰も辞めようとしません。

 けれど売り上げが4割も落ち込むという時にすべての雇用を守ることはできません。社員の給料を2割削減した上で日本人駐在員の半分ほどを帰国させました。加えて、初めて一部の米国人社員の解雇に踏み切りました。

 ここでもまた私は一人ひとりと向き合い、退職面接を行いました。中には「解雇がないと思ったから日系企業を選んで入ったのに、どうして業績が悪くなっただけで解雇するんだ」と泣きじゃくってしまった米国人社員もいました。まさに修羅場です。私ももらい泣きしながら「本当に申し訳ない」と心から謝罪しました。

 こうした人件費削減などの合理化策が奏功し、米国法人本社もなんとか赤字陥落を免れました。

 これは後日談ですが、退職面接で一緒に泣いた社員とは10年以上後にサンノゼで開かれたレーザーの展示会でバッタリ遭遇。ハグし合って再会を喜びました。彼もまた新たな職場で生き生きと働き、活躍している様子でとても嬉しく思いました。

 最近はリストラを知らせる場面も様変わりしているようです。私がやったような退職面接などは行わず、社内に入るためのセキュリティーカードを使用不可にするだけという会社もあるようです。人をモノのように扱っていると言わざるを得ない対応です。

 リストラを告げた相手との退職面接は本当につらいものでしたが、ここで心を通じ合わせることができたからこそ後に再会するというセレンディピティ(偶然の出会い)も起きたのだと思います。つくづく経営とは「縁」なのだと感じます。

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