慶応義塾大学大学院経営管理研究科(慶応ビジネス・スクール)は次世代の経営の担い手を育成すべく、エグゼクティブ向けに特化した学位プログラム「Executive MBA(EMBA)」を開設している。「EMBA」プログラムの目玉の1つが、企業経営者らの講演と討論を通して、自身のリーダーシップや経営哲学を確立する力を養う「経営者討論科目」。日経ビジネスオンラインではその一部の授業を掲載していく。

 9月には日本レーザーの近藤宣之社長が授業を行った。近藤社長は「リストラ」という言葉がない時代から、電子顕微鏡メーカーの日本電子とその子会社だった日本レーザーで業績不振に陥った会社の経営再建に尽力した。リストラの修羅場にも立ち会い、その経験から今、「社員をとことん大事にする経営」を心がける。「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞中小企業長官賞など数々の受賞歴を誇る。米国式経営と日本式経営を融合した、「進化した日本的経営」実現に向けて歩んできた道のりを語った。

(取材・構成:小林佳代)

<b>近藤宣之(こんどう・のぶゆき)氏</b><br/><b>日本レーザー社長</b><br/><br/>1944年東京生まれ。1968年慶応義塾大学工学部電気工学科を卒業、日本電子に入社。総合企画室次長、取締役米国法人支配人、取締役国内営業担当などを経て1994年子会社の日本レーザー社長に就任。債務超過だった同社を1年で黒字化し、2年で累損を一掃する。2007年、JLCホールディングスを設立し社長に就任。「MEBO(Management and Employee Buyout=経営陣と従業員による自社株買収)」という手法で独立を果たす。就任以来の連続黒字達成などが評価され、「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞 中小企業長官賞、「勇気ある経営大賞」などを受賞。著書に『ビジネスマンの君に伝えたい40のこと』(あさ出版)など。(写真=陶山勉、以下同)
近藤宣之(こんどう・のぶゆき)氏
日本レーザー社長

1944年東京生まれ。1968年慶応義塾大学工学部電気工学科を卒業、日本電子に入社。総合企画室次長、取締役米国法人支配人、取締役国内営業担当などを経て1994年子会社の日本レーザー社長に就任。債務超過だった同社を1年で黒字化し、2年で累損を一掃する。2007年、JLCホールディングスを設立し社長に就任。「MEBO(Management and Employee Buyout=経営陣と従業員による自社株買収)」という手法で独立を果たす。就任以来の連続黒字達成などが評価され、「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞 中小企業長官賞、「勇気ある経営大賞」などを受賞。著書に『ビジネスマンの君に伝えたい40のこと』(あさ出版)など。(写真=陶山勉、以下同)

経営危機に陥った会社を再建、22期連続黒字に

 私はこれまで3回にわたって経営危機に陥った会社を建て直してきました。3回目に取り組んだのが現在も社長を務めている日本レーザーの再建です。

 日本レーザーは1968年設立のレーザー機器専門商社です。私は日本レーザーが債務超過に陥っていた1994年、親会社から送り込まれて社長に就任。1年で黒字化を実現しました。以来、日本レーザーは22期連続の黒字経営を続けています。

 バブル崩壊後の日本企業は米国式の「お金を見る経営」に偏っていました。お金とは、つまり市場のことです。私は日本式の「人を見る経営」を融合し、「進化した日本的経営」を実現しようと一歩一歩進んできました。おかげさまで2011年に「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞の中小企業長官賞を、2012年には「勇気ある経営大賞」を受賞するなど、たくさんの賞をいただいています。

 慶応ビジネス・スクールで学ぶ皆さんは、将来経営者としてディシジョンメーキングをする立場になる人たちです。経営を担う立場に立った皆さんの意思決定に私の経験が少しでもお役に立てれば嬉しく思います。

上場した企業は「お金を見た経営」に傾きがち

 私が大学卒業後に就職したのは電子顕微鏡の世界トップメーカーである日本電子です。日本電子は1949年設立。1962年に東京証券取引所第2部に上場しました。額面50円の株価は上場して数日で2870円をつけました。短期間のうちに第1部に指定替え、信用取引銘柄となりました。その急成長ぶりに世間からは「第2のソニー」「第2のホンダ」ともてはやされました。経営者も社員も舞い上がり、まだ体力の乏しい中小企業であることを忘れ事業拡大に走りました。これは大きな落とし穴でした。

 上場した企業は「お金を見た経営」に傾きがちです。市場の期待に応えようと高成長・高収益・高配当・高株価を維持する会社であろうとする。どうしても無理が生じます。会計不祥事が明るみに出た東芝は「チャレンジ」を標榜して無理に収益を伸ばそうとして不正に手を染めざるを得なくなりましたが、日本電子も構造は同じでした。

 順調に成長しているかのように見えていた日本電子ですが、1970年代、ニクソンショックで急激に円高が進み、さらには石油ショックで物価が跳ね上がると、それまでの無理がたたって一気に経営状況は厳しくなりました。上場以来、株価を支えるため高配当を続けていたことも響きました。資本金32億円の会社が38億円もの赤字を抱えることになってしまいました。

 経営危機に直面した日本電子は合理化を進めます。工場の売却、レーザー、電子計算機、集積回路、医療用機器など多くの事業からの撤退を決めました。電子顕微鏡と分析器の事業だけを残し、希望退職という形で全体の3分の1に当たる1000人の社員を削減することになりました。当時はまだ「リストラ」という言葉はありませんでしたが、やったことはまさにリストラでした。

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