「もはや誰も助けてくれない」と痛感

 この問題に対しても、当時のトップは素早く対応しました。「親会社の言う通りに生きていかなくてはいけないというのは厳しい」「自主独立で生きていきたい」という思いから、株式を公開して親会社の影響を減らそうと考えたのです。

 親会社からすれば「自分たちのテリトリーに参入したいと言うし、そのために独立したいと言うし、いったい、なんという子会社なのか」と憤ります。オリックスが誕生して5、6年たった時には、両者には軋轢が生じ、相当厳しいやりとりの応酬が起きていました。それでも当時のトップは「親会社とケンカしてでも株式公開を断行する」という強い信念を持っていました。そしてそのケンカの先兵となっていたのが若造だった私です。といっても、ただ言い合うばかりではありません。こまめにコミュニケーションを取り、こちらの立場を理解してもらい、渋々ながらも「仕方ないから応援してやろう」と思ってもらえるように努力しました。

 親会社から相当叩かれはしましたが、オリックスはなんとか1970年に大阪証券取引所第2部に上場します。翌年には東京証券取引所第2部、さらに1973年には大証1部、東証1部に上場に至り、自主独立路線を歩むようになりました。

 株式公開したとはいえ、親会社だった商社や金融機関は当時まだオリックスの大株主でした。けれども我々が「独立したい」という思いで上場したのですから、大株主の方には「何かあった時には面倒を見よう」という意識はなかったでしょう。むしろ「あの子会社は、反対を押し切って上場して」と面白くない感情があったに違いありません。

 親会社たちは依然として大株主という立場である。けれども我々は上場を果たし、自主独立路線を歩もうとしている。オリックスとかつての親会社とは微妙な関係になりました。このようにどこのグループにも属さない、インディペンデントな状態というのは実は、とても淋しく、不安で、怖いことです。経営者が選択を間違えれば会社はつぶれてしまうのですから。

 上場によって、我々の「へたしたらダメになる」という危機意識は一層強まりました。「もはや誰も助けてはくれない」という極めて厳しい感覚、「背水の陣」「板子一枚下は地獄」という思いが芽生えたのです。強い危機感が常にありました。これは、今もオリックスに残るスピリットと言えるだろうと思います。

 現在のオリックスは株式のほぼ100%を機関投資家が所有しています。外国人持ち株比率は60%以上。大株主はいません。そして株主はしょっちゅう入れ替わります。オリックスは会社の株式を保有するオーナーと経営をしている執行部とが完全に分離した状態で歩んできています。

 30数年、経営トップを務めさせていただいた私自身の持ち株比率は限りなくゼロに近い数字です。株主の皆さまから、それも、どこのどなたなのか分からない不特定多数の方々から雇われている専門経営者という立場で、常にガバナンス(企業統治)を考えながら経営せざるを得ない状況にあったと言えます。

隣へ、隣へと多角化を進めた

「創業間もない頃は『へたしたらつぶれる』という思いで、常に『背水の陣』『板子一枚下は地獄』といった危機感がありました。そうした危機意識、言い換えれば『中小企業意識』は、今もオリックスに残るスピリットと言えるだろうと思います」
「創業間もない頃は『へたしたらつぶれる』という思いで、常に『背水の陣』『板子一枚下は地獄』といった危機感がありました。そうした危機意識、言い換えれば『中小企業意識』は、今もオリックスに残るスピリットと言えるだろうと思います」

 自主独立路線を歩み始めた頃からオリックスは徐々に多角化を始めました。当時のオリエント・リースのトップは「日本でリースビジネスは認知された」「次はアジアだ」と海外進出への旗を振りました。アジア各国を回ってリース業が成り立つかどうかを確認し、1971年に香港、翌年にシンガポール、さらにその翌年にはマレーシアという具合に1年で1カ国ぐらいのペースで海外進出を進めてきました。現在、オリックスが進出している国は30数カ国に達しています。

 オリックスの社員数はグループ全体で3万人ほどに及びますが、そのうち日本から海外の現地に出向しているのは70人ほど。現地主義を徹底しています。

 リース業というのは実態としては法人金融の機能を果たしていると説明しました。この金融の方向での多角化も進め、法人に資金を貸し出すほか、個人金融にも乗り出し、クレジット会社をつくったり銀行をつくったりしました。保険会社、資産管理などにも進出しました。金融の範囲は極めて大きいので、少しずつ隣に広げていくことで事業の成長を図ったのです。

 一方、機械設備の賃貸しという側面に光を当て、別の製品でもリースを展開しました。いちばんポピュラーなのが自動車です。自動車リースは3~5年の契約ですが、短期間だけ貸してほしいというお客様もたくさんいるのでレンタカー、カーシェアなどの事業にも進出しました。リースで使った中古車を活用し、中古自動車販売や輸出などにも乗り出しました。車の世界で隣へ、隣へとビジネスを展開していったのです。同様のことを船舶、航空機、建設機械、電気測定器などの分野でも進めてきました。

 こうして金融、設備という2方向で事業を広げてきました。変わったところでは、京都水族館、東京スカイツリーの足元にあるすみだ水族館の経営にも携わっています。大分県の別府では杉乃井ホテルという大きなホテルを運営しています。

 アナリストからは「あなたの会社ほど事業展開が複雑なところはない」「何をやっているのかよくわからない」と言われます。私からすると、そんなことは全くない。隣へ、隣へと進出してきただけですから、巻物のようにくるくると巻き戻していけば、元の機械設備のリースに戻ります。

 こうしてオリックスは多角化し、いろんな専門分野を持ちつつ、多国籍化した会社になりました。現在、売上高に当たる営業収益では、2兆3,692億円となっています。

 ノンバンクスタイルの金融業者というのは我々を含め、かつて数十社ありました。そのうち、現在、自立した形で残っているのはオリックスだけかも知れません。ほかの会社は吸収されたり、またつぶれたりして消えたところも数多くあります。オリックスは幸運にも特異な歴史をつくってきた存在といえるかもしれません。

 そんなオリックスの経営から学んでもらうことがあるとしたら、50数年前にごく小さな会社として生まれ、自主独立路線を選んだ時の「中小企業意識」を忘れていないということではないかと思います。その間、何度か危機に直面しました。私がトップを務めている間にも、「判断を間違ったら会社がつぶれるな」と思う場面は何度もありました。常に「背水の陣だ」「板子一枚下は地獄」という意識があったからこそ、幸いにもそれらの危機を乗り越え、生き続けることができたのではないかと思います。