慶応義塾大学大学院経営管理研究科(慶応ビジネス・スクール)が次世代の経営の担い手を育成すべく、エグゼクティブ向けに開設する「Executive MBA」。4月の授業に登壇したホンダ元専務執行役員の岩田秀信氏はリーマンショック後に赴任した北米ホンダでホンダフィロソフィーの形骸化、企業文化の風化という危機を目の当たりにした。
その危機は、米国など海外の価値観からの変質圧力などにも起因するが、元をたどれば1980年代後半、バブル期の日本ホンダにおける実力を無視した拡大路線に端を発していたと岩田氏は振り返る。成長著しい企業が事業規模を拡大していく段階で何が起きていたのか。岩田氏の目に映ったホンダ変質の要因とは。
(取材・構成:小林 佳代)
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元ホンダ専務執行役員
1978年名古屋大学院修了。本田技研工業に入社。ホンダエンジニアリング、ホンダエンジニアリングノースアメリカでの勤務を経て2005年ホンダ執行役員、ホンダエンジニアリング社長、2007年鈴鹿製作所長に就任。2008年ホンダ常務執行役員、2009年ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリングのCEO(最高経営責任者)に。2011年ホンダ専務執行役員を務め、2014年に退職。社友に (写真=陶山 勉、以下同)
振り返って考えると、転換点は「バブル期」
2009年、リーマンショック後に赴任したホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)で、私はホンダフィロソフィーの形骸化、企業文化の風化という危機にさらされ、かつてのビッグ3を想起させるような状況を目の当たりにしました。
ではなぜ30年以上の歴史があるHAMにおいても、ホンダフィロソフィーが形骸化し風化してしまったのか。これは私の実体験からの意見ですが、主な原因はやはり日本のホンダの企業文化の変質にあると私は思います。
ホンダフィロソフィーの形骸化、風化はいつ芽生えたのか。振り返って考えると、1980年代後半、バブル期にさかのぼります。
バブル期、他の自動車メーカーと同様に、ホンダは「車が売れに売れて仕方がない」という状況にありました。そこでホンダは大型投資への懸念を抱きつつも国内外で現場の実力を越えた「3大プロジェクト」に挑みます。
3大プロジェクトとは鈴鹿製作所での新工場建設、米国オハイオ州での第3工場建設、ホンダの主力車である4代目「アコード」の新機種量産化計画です。
当時のホンダの生産領域の実力からすれば、新工場を1つ建設し、同時にグローバルモデルを1つ手がける程度が精一杯だったと思います。しかし当時の経営陣はこれら3つの大きなプロジェクトに「GO」サインを出してしまいました。バブルの最盛期という環境が、他社に対して出遅れ感のあったホンダに決断を余儀なくさせたということが事実ではないかと思います。
正論が議論しづらい雰囲気に
しかし、身近な経営幹部の何人かは、この時期に蔓延しつつあった、「正論が議論しづらい社内環境」も大きな要因の一つであったと述懐しています。
過大なプロジェクトを抱え込んだ結果、ホンダは大混乱に陥りました。現場の実力を遥かに超える仕事量に加え、独創性を求める気風もあり、新工場建設、新モデル開発には意欲的に新しい技術を盛り込もうとしていました。
しかし、仕事量の軽減対策として導入したアウトソーシングでも、企画自体の遅延や企画精度の悪化は避けられず、さらに技術の量産性検証などが不十分だったため、結果的に国内外で大きな損失を発生させてしまいました。さらにそれに続いて、バブル崩壊直前には当時としては革新的なオールアルミ製ボディ—のNSXの販売が開始され、そのための専用工場建設も実行されました。
そのタイミングでバブルが崩壊します。大型投資による過大な償却負担に加え、新商品の販売低迷、その後1990年代半ばに至るまで円の上昇が続き、ホンダは深刻な経営危機に陥りました。
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