生形:四男の宗室はもともと野間玄琢という宮中出入りの医者の弟子になって、玄琢の「玄」を頂いて玄室と名乗っていました。でも、野間玄琢が急死して、再び千家に戻りました。そこで、宗旦が、先に述べたように家督と屋敷を宗左に譲り、その屋敷の“裏”に隠居する為の新たな屋敷を建てて。そこに玄室が一緒に移り住んだのです。

 その後、玄室は加賀の前田家にお仕え出来て、宗室と名乗り、さらに宗旦の晩年、この裏の隠居屋敷を譲り受けたのです。

木下:そこには茶室の「今日庵」もあって。これが「裏千家」ですね。

 その今日庵と不審菴は、今も隣接していますよね。

手を支えに膝を繰る所作を繰り返し移動する

生形:次男の宗守については、塗り師の仕事をしていた吉岡家へ養子に出て、吉岡甚右衛門と名乗っていましたが、弟の宗左の仕官が叶った後に、自分も茶の湯で生きることを志して、塗の仕事を中村宗哲に譲り、千家に戻ってくるんです。

木下:中村宗哲というのは、「千家十職(千家の好み道具を制作する十家)」の。

生形:ええ。宗旦がすぐに大徳寺に出家させて、宗守という号を授けてもらいました。そして後に、高松松平家に仕官し、その職を辞した(仕官を休む)ということから、茶室は「官休庵」と呼ばれるようになったと思われます。

木下:「武者小路千家」ですね。

生形:ええ。こちらは京都の武者小路の。

木下:整理しますと、三千家成立の順はどのようになりますでしょうか。

生形:茶人として「宗左・宗守・宗室」と名乗ったことを起点とするならば、表、武者小路、裏の順なのですが、茶堂として大名家へ仕官したのは、表、裏、武者小路の順となります。

宗旦と本阿弥光悦との接点

木下:宗旦は息子たちのことを大変に気に掛けていたんですね。自分が苦しい中にあったにも関わらず。

生形:宗旦自身は、敢えて生涯大名には仕えませんでしたし、長い病気の時期は、武家や公家の世界で利休の侘び茶は忘れられていましたから。生活は困窮していたんです。

 そんな千家は町衆に助けられて。少庵の『弟子衆控』という資料に、京の町衆の名だたる人たちの多くが、少庵の弟子だと書いてあります。例えば町衆のリーダーでもあった本阿弥光悦も宗旦の生活を援助しています。

木下:それは本当ですか。

生形:はい。宗旦が土地を売ろうとしても、勝手に売れるものではないですから、光悦が斡旋したり。逆に光悦が樂茶碗を作る時には、樂家一の名工であった若き日のノンカウ(道入)に土や薬をもらったりしていますね。

木下:光悦が樂茶碗を手掛けたというのは、そういう繫がりがあったからなんですね。

 光悦は書道の世界でも、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と「寛永の三筆」と言われている、正確には江戸初期の三筆ですが、その中の一人で、あの「風神雷神図屏風」で有名な俵屋宗達ともコラボレーションをして、ともに「琳派」の創始とも言われていますけれど。

 こういうお話を聞いていると、人と人の繋がりというのは、本当に一番の財産なんだなぁとつくづく思います。

茶碗を両手で持ち、残らないように飲みきる

生形:表千家が紀州徳川家に仕えましたでしょう。ただ家元はいつも紀州や江戸にいなくて良かったのです。お正月と盆あたりに紀州へ出仕して。それで紀州を往復する際に、淀川を下って大坂へ出ますよね。

 すると両替商などの船場の大商人たちが、家元が来たということで、茶を教えてくださいと。江戸時代から船場の豪商が表千家の弟子となりました。

 有難いことに、三井さん、鴻池さんなどは、現在も千家の役員に入ってはりますし、今日まで茶の湯の関係が繫がっているんですね。