利休の志を継ぐ宗旦と三千家

木下:利休の死後、千家はやはり厳しい状況にあったのでしょうか。

生形:侘び茶は、宗旦が復活させたのですが、生涯大変な苦労をして。利休切腹の時、宗旦は十四歳。父の少庵が秀吉に許され、十八歳で還俗して、少庵と親子で千家の再興に取り掛かるんです。ただ1614年の大坂の冬の陣の時に少庵が死んでしまいます。

木下:千家の再興が宗旦に託されるということですね。

生形:ところが少庵が亡くなると、1614年から1633年の十九年間、宗旦はほとんど茶道資料には出てこないんです。このことは今まで謎だったのですが、表千家の『不審菴(ふしんあん)文庫』に宗旦の手紙が二百数十通あって。その中に医者へ出した自己診断の病状を記した自筆の控えがあったんです。

 そこには〈全く体は悪くない。だが言葉も喋べれないし、文字も思うように書けない、隣の部屋にも行けない。まるで木像のごとし〉と書いてあるんです。この手紙を歴史学者の熊倉功夫先生が神経科医に見せたところ、重度の「うつ病」だと。

木下:父を亡くして、一人で千家を担うというプレッシャーに潰れてしまったんですね。そんな病にあった宗旦が復活するのは、やはり1633年以降ということでしょうか。

生形:寛永十年(1633)という年は、三男の宗左が唐津藩寺沢家(後に島原の乱の責で減封)に仕官して、千家の未来に少し光がさした年で、また父少庵の二十回忌に当たる年でもありました。宗旦も、永い心の病から立ち直って、利休が理想としていた一畳台目(一畳半)の茶室を造ったんです。

 すると、その茶室を近衛信尋がぜひとも見たいと、宗旦のもとに訪れるんです。

木下:近衛信尋という人は、書にも長けていたとも言われますが、宮廷文化復興に意欲的だった後水尾(ごみずのお)天皇の弟で。

生形:近衛信尋は最高の公家ですから。宗旦が茶を点て、茶碗を畳に直に置いたところ、驚きました。信尋は、茶は天目台に載せて出されるものとばかり思っていたのでしょう。「宗旦よ、これはどういうことか」と。

 宗旦は「祖父の利休が理想としていたのは、こういう茅葺(かやぶき)屋根の狭い空間で行う茶である。天目台でのお点前は、隣の書院で点てましょう」と言うと、すぐに宗旦の言葉を理解して。大変ご機嫌になって帰られたと。当時の文化人のトップが、初めて“侘び茶”を理解した瞬間ですね。

茶碗が両手から右手に移されて差し出される

木下:三千家はどのようにして生まれたのでしょうか。

生形:元伯宗旦(げんぱくそうたん)、つまり千宗旦の四人の子のうち、長男・閑翁宗拙(かんおうそうせつ)と次男・一翁宗守(いちおうそうしゅ:武者小路千家の祖)は、宗旦の先妻の子供で、三男・江岑宗左(こうしんそうさ:表千家の祖)と四男・仙叟宗室(せんそうそうしつ:裏千家の祖)とは母親が違うんです。

 長男の宗拙は事情があって義絶されました。しかし、後に宗拙の死去を聞いた宗旦は、〈言語に絶す〉と宗左への手紙に記しています。

木下:親としての愛情が深かったんですね。

生形:三男の宗左は、宗旦が大徳寺で修業していた時の先輩の沢庵和尚や玉室和尚、それから将軍の剣術指南役でもあった柳生宗矩(むねのり)などが奔走してくれて、寛永十九年(1642)に紀州徳川家への仕官が叶うんです。そこから「表千家」が始まります。

 宗左が3回目の仕官でやっと仕えた紀州徳川家というのは、いわゆる御三家の一つですから、ここで千家の格も大変上がったと思います。その四年後、宗旦は宗左に家督を譲ります。

木下:そうなんですね。