
いよいよ「侘び茶」の大成者である、千利休の登場です。利休には数多くのエピソードが残されていますが、その特異とも言える審美眼とストイックな精神性は、茶の湯を日本文化の頂点にまで高めました。そして茶の湯による身分を超えた人間同士の絆は、日本の歴史をも動かしたのです。
今回は、利休と天下人である織田信長、豊臣秀吉との関わりを中心に、茶の湯が武家の文化として確立していった背景、戦国武将の心の葛藤などについてのお話を、中世日本文学をご専門とされ、表千家の不審菴文庫の運営にも携わっていらっしゃる生形貴重さんに伺いました。
(前回から読む)
天下人の信長が求めた「儀礼の茶」
木下:利休にとっては、信長との出会いも人生の大きな転機ですよね。利休と信長との接点はどこで生まれたのでしょう。
生形:「堺」ですね。信長は経済の重要性をよく分かっている戦国大名で、まずそこを直轄にしたんです。
堺は鉄砲の火薬の原料である硝石(しょうせき)を独占輸入し、鉄砲を生産する技術もありました。また堺の商人たちはいち早く為替のシステムを創っていて、各地の情報もいろいろと入ってきました。今日で言う金融・経済、流通、情報を一手に握っていたのが堺という町だったのです。
木下:その堺には、茶の湯の文化もあったというわけですね。
生形:信長は、かつての同朋衆に代わる「茶堂(さどう)」として、堺の政商である津田宗及と今井宗久をまず起用しているんです。津田宗及は貿易商、今井宗久は利休の師である武野紹鷗の娘婿で、武具とか鉄砲とかを商いとしていて、二人とも堺ではニュー・リーダーでした。
ただ信長は「新たな武家の儀礼としての茶をやれる奴はおらんのか」と、茶の湯や茶道具について飛び抜けて勝れた人材を求めていたんです。そこで二人の推薦で、利休が信長に登用されたということでしょう。信長はその分野に必要な人材を求めますから。
天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後の妙覚寺での茶会で、早くも利休が「濃茶(こいちゃ)」の担当になっています。茶堂のトップに位置付けられたんですね。
木下:利休はその時、何歳だったんでしょうか。
生形:義昭追放の年ですと、五十二歳ですね。
木下:信長の茶会とは、どのようなものだったのでしょうか。
生形:信長の茶会は、信長が入京した永禄十一年(1568年)から安土城が出来る天正四年(1576年)までは、禅宗か日蓮宗の大寺院で催されていました。その特徴は、戦争→茶会→戦争→茶会という繰り返しで。
戦争が終わると、茶会は、新たに臣従する武将を自らの秩序の中に組み込む儀礼の役割を果たし、次の戦争の前では軍団の結束茶会になるわけです。つまり、信長は自身の政権の秩序作りの為に、茶会を武家の「儀礼」に発展させたのです。
木下:それは多くの客を招いて行う「大寄せ」の形で。大人数の目の前で権威を誇示するような、新しい作法がそこに成立するのですね。
生形:ええ。少なくとも義政・能阿弥の時代は、同朋衆が会所の茶点所で茶を点てて、客の所へ運んでいましたが、信長が大きな寺院で茶会をする時には、茶堂が客の前に座って茶を点てました。儀式に相応しい格式高い点前をやっていったと思います。
何故その必要があったのかと言えば、信長政権は“官僚組織”が未熟だったからです。そこが秀吉政権との決定的な違いなんです。
木下:茶を政治に利用していたということですね。でも、同時に武家の文化として確立されたということでもありますよね。
信長の茶会は、格式高い「台子」を使ったものだったのでしょうか。
生形:儀礼的な茶会は、たぶん台子に皆具を飾って、広間で行ったと思います。「天目台」に茶碗を載せて出すという格式の高い作法で。
秀吉の時代に利休がそれまでの古い作法を改めて簡略化したと伝えられていますが、おそらく信長時代に利休が台子の点前を確立したのでしょう。ただ利休自身は儀式的な台子の茶は嫌いだったとも伝えられていますよね。
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