新しい“四畳半”茶室の創造

木下:珠光が侘び茶の“創始”。利休は侘び茶を“大成”させた人と言われていますが、その間に、利休の師である武野紹鷗(たけのじょうおう)という人がいて。紹鷗は、珠光に直接の教えを受けたのではないにしても、珠光の流れを汲みつつ、「侘び茶」の形を整えて、洗練させた人という解釈でよろしいのでしょうか。

生形:そうですね。侘び茶の“中興”とも言われています。

木下:紹鷗は、連歌を嗜んでいたということですが、茶の湯と和歌との関係において、このことも重要な点ではないかと思います。

生形:紹鷗は若い頃、京都の三条西実隆という、公家で身分も高く、当時最高の学者に和歌を学びに行っているんです。商人たちは貴族的な教養がないと商売が出来ませんので。『実隆公記』という日記に、若き日の紹鷗の記録が、入門するところから出ています。

木下:三条西実隆は、前回のお話に出ていた義政の東山サロンで、香の世界の取りまとめもしていた人ですよね。

生形:そうです。ただ当時のお公家さんというのはお金が無いですから。新五郎とまだ名乗っていた頃の若い紹鷗をすごくかわいがるんです。今日金子をくれたとか、食べ物を持ってきてくれたとか、生活を支えてもらったりしていたので。

 そんな紹鷗に歌を教える中で、藤原定家の歌論書『詠歌大概』を講義した時に、「茶と和歌の世界はなるほど一緒や」ということを、紹鷗が悟ったというんです。

木下:一緒というのは。

生形:『詠歌大概』というのは、沢山の和歌が列記されているのですが、前文があって。そこに、〈和歌というのは、古い言葉(伝統的な歌語)を使わないといかん。でも、表現される心は新しく〉と書かれていて。

木下:それは、この現代において伝統文化である書道を探究する、書家の心得としても通じるところですね。

生形:まさに木下さんが言うように、一緒だと思いますね。伝統を基盤にして新しい世界を創造しないといかんということは。この精神が茶の湯を新しくしていくエネルギーになったはずなんです。

「一心得道」と言われている茶席の掛物

木下:それがきっかけで、紹鷗は定家の「小倉色紙」を、いわゆる軸で、茶席の掛物として取り入れたんですね。

生形:「和歌懐紙」を床の間に掛けるということは、茶の湯に新たな可能性を提示し、ある意味で独自の和風空間を作り出したということです。

木下:定家が編纂に関わった『新古今和歌集』の美意識が継承されて、ここで新たな息吹が芽生えたということですよね。

 “和歌”を掛物として飾るということは、紹鷗からということで、紹鷗以前には無かったのでしょうか。

生形:無かったですね。書院の座敷飾りである「唐物荘厳(しょうごん)」の頃は、唐絵や中国の禅僧の墨跡が主流でした。

木下:絵だったものが、書になるきっかけがあったと思うのですが。それは、珠光が「墨跡」と呼ばれる、禅宗の僧侶が書いた禅語を掛けたことによるのでしょうか。

生形:ええ。禅宗の精神が、珠光を通じて茶の湯にもたらされたのでしょうね。一休さんから圜悟克勤(えんご こくごん)という中国宋代の禅僧の墨跡を頂いて。それで茶の世界では「墨跡第一」と言うんです。

木下:そこに今度は、紹鷗が和歌の“古筆名蹟”を取り入れたと。

 紹鷗の頃には「手鑑(てかがみ)」は普及していたと考えられますでしょうか。手鑑というのは、例えば平安朝のものは、もうこの時代には古筆という扱いになっていますけれど、それらを今で言うスクラップブックのようにまとめたもので。

 昔は書を手に取って、見て愉しむという風習があったわけですが。

生形:江戸時代になると古筆鑑定を生業にする古筆家が生まれますが、既に紹鷗の時代に手鑑はあったかも知れません。そして紹鷗によって、床の間が書の流麗な美しさを楽しむという空間にもなっていきます。

木下:紹鷗は、茶の湯において、様式美の面で功績が大きかったんですね。