
(photo by nanaco、以下同)
禅宗の伝来とともに日本に芽吹いた喫茶文化は、禅僧や武士たちの間に根付き、室町将軍家の文化サロンにおいて、格式のある「書院の茶」として整えられました。
一方で、今日私たちが侘び・寂びという言葉からイメージする「草庵の侘び茶」は、大坂の堺にルーツがあります。当時の堺は、南蛮渡来の商人たちがヴェネチアと比較する程の繁栄ぶりでした。
そんな堺の商人たちと、あの一休禅師との出会いによって生まれた侘び茶。今回は、中世日本文学をご専門とされ、表千家の不審菴文庫の運営にも携わっていらっしゃる生形貴重さんと一緒に、侘び茶のルーツを巡るお話です。
(前回から読む)
一休禅師と堺の商人たちの出会い
生形:足利義政の時代に、応仁の乱で大徳寺が焼けてしまったんです。
木下:大徳寺と言えば、後に茶の湯と深い関わりを持つことになる、臨済宗の禅宗寺院ですね。
生形:はい。この時、再建に立ち上がったのが、一休宗純です。支援を求めて3回程、堺の町へ行っています。
木下:このことも茶の湯の歴史上、重要なターニング・ポイントですよね。
生形:堺の町は、鎌倉時代は漁村で、資料にもほとんど出てこないのですが、14世紀に突如、栄えます。港には大きな船が停められて、京都・大坂・奈良に近い立地条件ですから。いろんな産業に関わる人たちがいて、海外貿易にも乗り出し、金融業も発達したんです。
木下:室町時代は貨幣経済の浸透により、商業が発展して、商人が力を付けた時代と言われていますよね。
生形:ただ我々はこの頃の堺の商人を、江戸時代の町人のように捉えてはいけないんです。
木下:と言いますと。
生形:国際貿易に携わっているような商人は、新しいタイプの生き方をする人たちです。武将が刀や槍や鉄砲で生きていくなら、彼らは銭で、命を懸けて生きているわけです。
当時は船で海に出るとどんな危険が起こるか分かりません。明日知れない武士と同様に、彼らも「来世は極楽」なんて言うてられへんのですよ。それで一休さんが来てから、大徳寺派の禅が商人たちの支持を得たんです。
木下:一休宗純と言えば、天皇の御落胤(ごらくいん)という血筋にあったとも伝えられていますけれど、「風狂」の人と言われていますよね。
生形:そう、反骨の人ですね。濁った俗世が大嫌いで。一休さんの周囲には、能楽者などの芸能に関わる人も沢山集まりました。
そんな一休サロンの中に、村田珠光(しゅこう)という人がいて。珠光も一休さんのもとで禅の修行をし、禅僧として一人前という証である、印可(いんか)として、宋の高僧である圜悟(えんご)の「墨跡(ぼくせき)」をもらっているんです。
木下:村田珠光という人は、茶の湯、特に「侘び茶」の創始と言われている重要人物ですよね。
生形:ええ。商人や新興武家は、広大な邸宅は持ち合わせていませんでしたが、自分の家の一室で茶を楽しんでいたんです。このような人たちを対象として、茶を指南した飛び抜けた指導者が村田珠光だったんです。
木下:珠光のバックグランドというのはどのようなものなのでしょうか。四畳半で茶を行ったとも伝え聞きますが。
生形:もとは奈良の僧侶の出で、京都で呉服商を営み財を成したとも伝えられていますが、よく分かっていないんですよ。具体的にどういう茶室だったかなどについても、確たる資料が無いんです。
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