禅宗「建仁寺」の室内飾り。中央には「茶祖」栄西の頂像
(写真提供:建仁寺)

 2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致活動で、世界へ発信された言葉「おもてなし」。この言葉から、「茶の湯」を思い浮かべる人は多いでしょう。明治維新以降、女子教育に茶道が導入され、現在の茶道人口の九割程は女性とのことですが、他方で近代日本を牽引したリーダーたちが、「数寄者」と呼ばれた茶の湯の愛好者であったことも見逃せません。例えば三井物産の益田孝氏、東武の根津嘉一郎氏、阪急の小林一三氏、東急の五島慶太氏――。

 もともと茶の湯は、戦国武将が心酔した、荒くれ者の文化でした。明日をも知れぬ命を捧げ、戦いに明け暮れた彼らは、茶の湯に生かされていたとも言えます。先に挙げた経済人たちも、新しい日本の創成という戦場で、同じ境地にあったのではないでしょうか。

 今回は中世日本文学をご専門とされ、表千家の不審菴文庫の運営にも携わっていらっしゃる生形貴重さんとお話をさせて頂きました。茶の湯を日本史とともに捉えながら、そこに潜む日本人特有の「心のしきたり」と「美のこだわり」について迫りました。

書家 木下真理子

和歌と茶の湯の意外な関係

木下:そもそも日本に茶が入ってきたのはいつ頃でしょうか。

生形貴重(うぶかた・たかしげ)
国文学者。表千家不審菴評議員。表千家不審菴文庫運営委員。1949年大阪の表千家の茶家朝宗庵に生まれる。同志社大学大学院修士課程修了。専門は中世日本文学、茶道文化論。『四部合戦状本平家物語全釈』(和泉書院)で日本古典文学会賞を共同受賞。『利休の逸話と徒然草』(河原書店)で茶道文化学術奨励賞を受賞。茶道の文化的な魅力を伝える講演や著述活動に従事。(photo by nanaco、以下同)

生形:7世紀前半から9世紀前半に朝廷が派遣した遣唐使は、中国の様々な文物を持ち帰りましたが、茶は9世紀前後に日本に伝えられました。唐の宮廷で茶を飲む風習があったのですが、それが嵯峨天皇の頃に入ってきたんです。

 その時の茶は、「団茶」と呼ばれる発酵茶で。“団”というのは、石鹸みたいな塊のことです。これを細かく削って、お湯を入れて。おそらく塩とかも入れて、今で言うたらコンソメスープみたいな感じで飲んでいたと思います。ただそれは日本には根付かなかったですね。

木下:嵯峨天皇は、書道の世界では空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と呼ばれる書の名手の一人で。平安前期に、唐の文化に傾倒して勅撰(ちょくせん)漢詩集の編纂を命じたりしていますよね。

 平安時代は、前期、中期、後期で、文化のイメージも大きく異なります。中国文化の模倣期の前期、遣唐使を廃止して文化の国風化を確立した中期、貴族政治の終焉を告げる院政の後期というように。

生形:和歌の世界で言うと、平安中期である10世紀初頭の『古今和歌集』のような艶やかな宮廷美があって。それが、平安後期の11世紀後半から院政になると、国司として地方に赴いた中流貴族たちなどによって、田園風景や寂しい山里といった、枯淡静寂の寂寥感に満ちた歌が増えてくるんです。

木下:国司階級、いわゆる受領(ずりょう)層の人たちが歌を始めるのですね。

生形:若き日の鴨長明。それから武家出身の西行法師などの歌人も源平の争乱期に登場した歌人ですね。

木下:西行は、平清盛と同じ歳で。

生形:そして鎌倉初期に『新古今和歌集』が編纂されるんですが、このような平安の後半から中世にかかる時代の和歌の美意識が、後の「茶の湯」の美意識の源流になります。