“表現”の独り歩きと書への誤解

木下:ところで、第二次大戦後、抑圧から個が解放されて、より自由なものを求めるという気運があって。1950年代に西洋の「抽象芸術」、「アクション・ペインティング」とリンクしながら、海外で脚光を浴びた、森田子龍(もりたしりゅう)などによる「前衛書」と呼ばれるものも出てきましたよね。その流れで言えば、篠田桃紅(しのだとうこう)や井上有一なども海外で評価を受けましたが。

島谷:前衛書は、絵画に近いですよね。

木下:前衛書を書いている人は、特に線質にこだわっているわけですが。

島谷:ええ。ただ、絵画の人も、線にこだわって絵を描いている人はいるわけです。

木下:前衛書の全てがそうではありませんが、“文字”そのものから離れてしまうものは、やはり“書”とは言えないのではないかと、個人的には思います。

 それから、これはここ⼗年くらいのことになりますが、メディアでいろいろなタイプの書家が取り上げられるようになりました。

 こうした状況は、おそらく硬筆どころか⼿書きという⾏為すら衰退してしまった時代の反動だと思うのですが、筆と墨と紙を使って書いていれば、誰もが書家であるとも思われています。

 ⼀般的に、書の本質が⾒失われていて、気軽な⾃⼰表現のツールと捉えられていたり、メディアの広告などでは、筆文字が単なるデフォルメ的な“効果”として使われている面もあります。

島谷:筆で書く、筆で書かれたものを目にする機会が増えるということにおいては、いいことだと思うんですよね。

 でも、“伝統”を踏まえていない書というのは、あり得ませんので。

木下:書芸術にしても、クリエイティヴであればそれでいいというものではなくて、やっぱり、先⼈たちが培ってきた書文化に⽴脚していることが大切ですよね。そうでなければ、それには書の本来の魅力が備わっていないということになってしまいます。

 また書作においては、主観的な主張だけで書くことでも、客観的な判断だけで書くことでもなくて。結局、書は、⾃我というものをどう扱うのかということにかかっていると思うんです。

書作において⾃制心の扱いを意識すれば、書の本質は取り戻せる

島谷:だから臨書と創作は常に並行しながら行わなければいけないということがあります。

 臨書が完成してから創作にいくというふうに思って書を勉強している人も多いのですが、臨書が完成したら創作にはいけません。

木下:確かに、臨書に“卒業”するという考え方は無いですし。自分の書を平行して模索していくということですね。

島谷:例えば青山杉雨の書の中には、いろいろな要素があるわけですけれど、その要素を弟子たちが吸収して、さらに進んでいればオーケーということです。

 でも型に入る前から、型を出る準備もしないと、師に飲み込まれてしまいますし、良くも悪くも誰の弟子かということが直ぐに分かってしまいます。

 師風の評価がある程度定まっているものを、それに向かって真似をすると、師のものが100点だとすれば、80点は簡単に取れてしまうわけです。

木下:おっしゃる通りだと思います。

島谷:それから、単に上手いだけということでもやっぱり駄目なんですよね。

 上手いだけなら、昔の公家はみな上手いわけです。それは普通のことであって、大切なのは、その上で、書いた人の魅力が書に反映されているかどうかということだと思うんです。

木下:このお話は、芸道における「守破離」の“離”についてだと思うのですが、型を⾝に付けた上で、“離”は独自に新しいものを確立させることなんですよね。

島谷:「道」ということで言えば、有るものを求めるのではなくて、無いものを求めるということ、追求の先にある気高いものを求めることですね。

木下:それは書の技術的なこともさることながら、⽣きている過程で養われていく美意識や感性が、その⼈自身の書⾵に繋がっていくということなんだと思います。