木下:それは古代中国のもので。

島谷:それまでの清・明・元・宋・唐・晋より前の中国書法、つまり書の“原点”を辿って学ぼうとしたんですね。

 菱湖の門弟であった巌谷一六(いわやいちろく)などは日課のように楊守敬のもとを訪れて、拓本や法帖を実見して刺激を受けていたんです。日下部鳴鶴(くさかべめいかく)や中林梧竹(なかばやしごちく)はそれだけでは飽き足らず、直接中国にも渡航しました。

 また後に鳴鶴一門に拮抗するような大きな系列を形成した、西川春洞(にしかわしゅんどう)も「北魏」「隷書」「篆書」の書法を学びつつ、さらに「殷(いん)」や「西周」代の「金文(きんぶん:金文体とも言われる)」にこだわりを持って学んでいました。

木下:「金文」というのは、青銅器の表面に鋳込まれた古代文字のことですね。

 それから、鳴鶴は身近なところではお酒の「月桂冠」のラベルなどを書いた人ですが、今の「書学」のスタイルを確立した、近代書道の立役者とも言われています。

島谷:その鳴鶴に師事して、財力のあった比田井天来(ひだいてんらい)も古典の「臨書(りんしょ)」を奨励して、碑版法帖を積極的に出版しました。

木下:「臨書」は、手本を見ながら学ぶことですね。

 ただ、学びと言っても、このあたりはもう、道徳教育の為とか、習字というレベルでもなくて、学術研究ということになりますよね。

島谷:日本では長年、人から人へ“書き伝え”られ、継承されてきた文字が学びの拠り所だったわけですが、古代中国の石や金属に刻された、その⽂字を写しとった碑やその拓本、さらに仕立てられた法帖は、当時の文字の姿形がそのままうかがえるものになりますので、そういう意味では“実証的”に書を学ぶという考え方が確立しました。

 春洞の三男である西川寧(にしかわやすし)も昭和十五年に中国に留学して、「金石学」、「文字学」を勉強しました。その門下で、青山杉雨(あおやまさんう)もその流れを汲んでいます。

 また両氏とも書道関連の出版物を出しては、その編集をしながら古典に影響を受け、自らの作品に反映させていくということが行われていきました。

木下:漢字の分野においては、青山杉雨先生たちが、「篆書」をちょっと“草書風”にというか、そういった線質で書いて。

書のモダニズムを追求した青山杉雨の代表作
青山杉雨 筆/「萬方鮮(ばんぽうせん)」(東京国立博物館)

島谷:「草篆(そうてん)」という言葉を使っていますよね。

 西川寧にしても、青山杉雨にしても、それから天来の弟子であった金子鴎亭(かねこおうてい)の「近代詩文」、手島右卿(てしまゆうけい)の「少字数」にしても、一つの様式美を作っているんです。