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「利簋銘(りきめい)」 書作とは、ルーツを辿り、それを敬うこと
中国・西周代の篆書の拓本(⼤東⽂化⼤学 書道研究所)

 明治時代になると、中国と⻄洋の影響を受けて、書⽂化はさらに新たな領域へ進みます。

 それまで継承されてきた古の書は、「書学」という“学問”として探究されるようになり、人々を魅了してきた筆跡そのものが、「書芸術」という“作品”として創作されるようになりました。

 一方、現代社会はデジタル化が進み、筆はおろか⼿書きをする機会さえ少なくなっています。さらに、⼀部メディアによる不⾒識な取り上げられ⽅もあり、書の本質が⾒失われてもいます。

 今回は、近・現代の⽂化的大変革における、“書⽂化”の経過を辿りながら、改めて書の魅⼒、書の⾒⽅などについて、九州国⽴博物館の島⾕弘幸館⻑とお話させて頂きました。

書家 木下真理子

町人たちの「習字」という手習い

木下:江⼾時代は、町⼈⽂化が花開いた時代でしたが、家元制度の下で、多くの人々が芸事を師匠に付いて習っていました。

 また勤勉であることが美徳とされていた時代であり、それこそ寺子屋は、今のコンビニエンス・ストアに匹敵するくらいの数があったそうですね。

 その寺子屋で、書を家業として、職として教える人が「書家」と呼ばれていて。現代の習字教室や学校書道のルーツは、こうしたところにありますよね。

島谷:寺子屋で町人が読み書きを学んだ結果、江戸時代の識字率は世界でも群を抜いていて、90%とも言われています。

木下:明治時代になると、それまで何百年と続いてきた“和様”のスタイルから変わり、幕末の三筆の一人でもある巻菱湖(まきりょうこ)の「菱湖流(ひしこりゅう)」が、政府で採用されて。菱湖の字というのは、将棋の駒に書かれている、あの楷書の字で、“唐様”ですよね。

島谷:それは巻菱湖の字が好まれていて。教科書も、作る人に巻菱湖の字を習っていた人が多かったので、たまたまそうなったというだけなんですけどね。一般的にはまだ和様でも書かれていました。

楊守敬の来日と「書学」の始まり

木下:まず日本における中国書法ということで言えば、明治十三年(1880)に、中国「清」の金石学の学者であった楊守敬(ようしゅけい)の来日という大きな出来事がありました。

島谷:楊守敬の来日の目的は、過去、日本に渡っていた漢籍を蒐集することにありました。

 その費用を工面する為に、売買しようと一万点以上の「碑版法帖(ひばんほうじょう)」を持って来日したわけです。

木下:それは、金石から採った「拓本」のうち、保存・鑑賞・学書用に仕立てられたもので。後にも先にも、一度にこれほど多くの書が日本に持ち込まれた出来事は無いですよね。

 これによって、「書学」という、古典書を“学術”として研究するという動きが出てきたわけですね。

楊守敬(ようしゅけい)が来⽇に際し持参した碑版法帖
王羲之の「蘭亭叙」(⼤東⽂化⼤学 書道研究所)

島谷:起点と言ってもいいと思います。