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本阿弥光悦 筆・俵屋宗達 絵/鹿下絵新古今集和歌巻断簡 (山種美術館)
平安時代に宮廷で花開いた雅やかな書⽂化は、鎌倉から室町へ向かう中で、堅実さを持ちながら、“流儀”として確立し、継承されていきます。そしてそれは、江⼾時代に、町⼈階級の学びとなりました。
今回は、書が今日のように完全に“教育”と“芸術”に分離する前の時代について、捉え直してみました。
また現代的に言えば、アートディレクターであり、芸術家でもあった本阿弥光悦にスポットを当てています。
伝統を敬うとともに、書に新しい気風をもたらした彼を捉えることで、近・現代の書の流れが見えてきます。
引き続き、九州国立博物館の島谷弘幸館長とのお話です。
書家 木下真理子
書流という「型」の文化の確立
木下:平安貴族の中心的存在であった「藤原北家」には、“和歌”に長けていた家系と、“書”に長けていた家系とがありますよね。
平安後期から鎌倉に入り、書系では藤原行成を祖と位置付けて、その子孫たちによる「世尊寺流(せそんじりゅう)」という流派が確立していきました。「世尊寺」というのは、⾏成の建⽴した寺院の名ですよね。
和歌系では藤原俊成(としなり)、定家(さだいえ)親子の系譜上に、あの「冷泉家(れいぜいけ)」があります。
ちなみに和歌系ですが、定家の「定家様(ていかよう)」という書は、実際のところどうだったのでしょうか。
島谷:定家を尊重する気風を受けて、定家の没後しばらく経過してその家系でまず流行っていきます。その後、和歌を学ぶ人たちが真似るようになったので、和歌やお茶の世界では流行しました。
ただ、ほとんどの公家は、世尊寺流か、世尊寺流の流れを汲む「持明院流(じみょういんりゅう)」の書を書いていましたし、それと比べるものではありませんね。
木下:定家による平安時代の写本が今でも冷泉家に数多く残されていますが、どこか、書き間違わぬようにという意識で書かれたのか、実直な印象が見受けられます。
この時代は、平安時代のように文字の造形美の追求というより、どちらかと言えば、きちんと書くというか、実用的に書くというような意識の方が強かったということはあるのでしょうか。
島谷:もちろん、美の追求もなされましたが、歌人の定家が、文字を正確に転写することを重要視したことの影響は大きいですね。定家の自筆が伝来している家と、その写本が伝来している家がありましたが、定家尊重が次第に、その筆跡までを尊重するようになり、定家の書風を真似て書くようになっていくんです。
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