中国一辺倒から国風文化の確立

木下:こうした女手(平仮名)が育まれていく過程は、それまでの時代のように中国一辺倒の文化から、国風文化が開花する時期と重なっていますよね。

島谷:書道史的には「三筆(さんぴつ)」の時代に変わって、「三跡(さんせき)」の時代ですね。

木下:「三筆」というのは、〈弘法筆を選ばず〉の空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)、それから嵯峨天皇で。奈良時代後期から平安時代前期に生きた人たちですよね。

 「三跡」というのは、平安時代前期の終わりから平安中期の⼈たちですね。

 小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)。行成は、紫式部らとともに藤原道長に仕えていて。三跡は少しずつ、時期がずれていますよね。

島谷:小野道風は、894年に生まれているんです。たまたまですが。

木下:894年というのは、「遣唐使廃⽌」を菅原道真が進⾔した年ですね。

 この11年後に紀貫之によって『古今和歌集』が編纂されるわけですが、国風文化の時代へ突入していくことを印象付けるという意味では、この894年の二つの出来事は、分かり易いですね。

 三跡と呼ばれる能書(のうしょ:書に卓越した人)の一人である道風は、貫之が牽引して、仮名が発達していった同時代に、漢字のスタイルを、中国風の“唐様(からよう)”から日本風の“和様”として確立していったということがありますよね。 (参照「王羲之 紙本墨拓/游丞相蔵玉泉本蘭亭神品 文化遺産データベース」)

 この「和様」という言葉は、書や絵画や彫刻などの美術の分野、建築の分野でも使われていますが、東京国立博物館で行われた素晴らしい「和様の書」展のリーフレットには、こう書かれていたと思います。

〈和様とは、日本の風土、国民性に合った日本独自の文化をさす〉。

「和様の書」展(2013年)では日本の書の名品が一同に会した
(photo by nanaco)

島谷:和様の漢字について非常に大まかに言えば、漢字の形状が、中国の直線的で、重厚、強さがあるようなスタイルから、曲線的で、軽妙、洒脱で柔和なスタイルで書かれるようになったということを指しています。

木下:日本人は、中国や西洋のように左右対称美というより、不均衡を好んで、それが最も端的に表れているのが仮名ですが、その仮名に調和させるようにして、漢字を和様という柔らかいスタイルに変えていったということですよね。

島谷:良い加減で変えながら、“不均衡の均衡”を目指していたと思います。

「書は⼈なり」における“人”

木下:この和様を“生み出した”のが道風、“進化させた”のが佐理、“完成させた”のが行成とも言われていますが。

 中国の書聖 王羲之もそうでしたが、この三人も基本的には官僚で、それぞれに官職を務める中で、当時から能書と認識されていたということですよね。

島谷:はい。書役でしたね。能書としてやらなければいけないようなことは、三人ともやっていました。

木下:〈書は人なり〉という言葉がありますけれども。

 これは言葉通りに取れば、“書はその人を表すもの”となりますが、三跡は官僚という役目において、ことさら自我を出す目的で書いていたわけではないですよね。

島谷:平安から安土桃山ぐらいまでの知識階級は、大体10~20%くらいだと思いますが、彼らは“人格”を高める為に、教養を身に付けていました。

 漢文が読めて、和歌が詠めて、有職故実を心得ているという。

木下:そういったことが備わっているという前提での、〈書は人なり〉ですよね。

島谷:儀式や行事で美しい字を書くことも高い評価に繋がっていました。

 ただそれも、単に上手いだけではつまらないということはありました。

木下:当時は基本的に“筆跡”で、その人の人となりを伝え合う時代であったと思いますので、能書の字を皆こぞって真似、書風にも流行があって。

 言ってみれば能書は、今の“ファッション・リーダー”みたいな存在ですね。

島谷:まさにファッション・リーダーです。

 道風の字を「いまめかしい」と。そんな表現が使われてもいるんです。現代風で美しい、魅力的であると捉えていたんですね。