和歌と仮名は車の両輪のように

木下:ところで少し話は変わるんですが、平安時代というのは、前期の嵯峨天皇あたりまでは、政治も文化も中国化を推し進めていましたよね。それが「藤原北家(ふじわらほっけ)」などがそうですけれど、だんだん日本特有の政治機構が確立していって。そうした新たな土壌が出来て、日本独自の文化が熟成していったんですよね。

島谷:平安前期の中頃に当たる850年~860年ぐらいに、「和歌」が再びたくさん作られるようになってくるんです。

木下:『万葉集』(759年)からしばらく間をおいていますが、和歌のムーブメントがまた起こったということは、重要なことですよね。

時代の流れとともに、国風文化が次第に形成されていった

島谷:菅原道真(すがわらのみちざね)が大宰府に左遷されて、代わりに紀貫之が台頭して、時代は平安初期から中期に移っていきます。

 その平安中期の頭、10世紀の頭に『古今和歌集』(905年)が編纂され、千百首も収められています。ただ、それはある日突然に出たものではなくて、そのような機運があることを感じて、日本最初の勅撰和歌集として醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』が作られたわけです。

木下:道真は漢詩や書にもとても長けていて。漢詩と和歌を対応させていくというスタイルで「新撰万葉集」も私撰ですが編纂していて。このスタイルは後に『和漢朗詠集』などにも受け継がれていって。道真の頃より緩やかに漢詩文化から和歌文化に移行していったということですよね。

 ただ、道真から貫之へ、時代のキーパーソンが変わったという。

 宮廷サロンでは、あの『伊勢物語』の主人公のモデルであるとも言われている在原業平(ありわらのなりひら)、それから小野小町などが有名ですけど、やはり、和歌の普及と仮名の発達はリンクしていたと考えて良いのでしょうか。

島谷:それはもう車の両輪のように連動しながら。

 和歌を美しく、流麗に書く、あるいはより速く書きたいという欲求から、多彩に仮名が発達していったと捉えていいと思います。

木下:その『古今和歌集』には、二つの序文がありますよね。

 一つは紀淑望(きのよしもち)の“真名”、つまり漢字による純漢文の「真名序」。もう一つは撰者の一人である紀貫之の“草仮名”による「仮名序」ですよね。

島谷:ここで、新しい日本語の表記をしていこうと、表明していますよね。

木下:これは日本人にとっては、大きな出来事ですね。

 日本人は漢字という文字を取り入れつつも、美しい響きを持った大和言葉そのものは捨てなかったわけです。

 それから、貫之にはもう一つ大変に有名な『土佐日記』(935年頃)がありますよね。その冒頭に、あの有名な〈男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり〉という一節が書かれていて。貫之は、わざわざ女性と設定しています。(参照「土佐日記 後世の写本 文化遺産データベース」)

島谷:貫之が“女”に仮託して『土佐日記』を書いたということで言えることとしては、普通だったら朝廷の公式文書のように「変体漢文」で書くべきところを、貫之は『古今和歌集』の撰者にもなった人ですから、和歌文学の考え方として、随筆的なものを日本語、大和言葉を使って表現したかったという意向があったんだと思います。

木下:貫之は仮名によって記す、日記文学を始めた人でもあったんですね。

 漢詩などは何か政治的な志とか、なんとなく息苦しいイメージもありますけれど、日本人が大和言葉で、日本的な四季の美しさや複雑な情緒表現などをする場合には、やっぱり仮名の方が適している感じはします。

島谷:それは少し経って、『源氏物語』(1008年)や同時期の『枕草子』など女流文学、日本文化が大きく開花していったということに繋がっていきますよね。

*1月24日公開予定「極美な仮名と和様の書」に続く