日本人が“文字”を書いたルーツ

木下:それでは、日本において文字を書くことのルーツがどのあたりにあったのかということからお話を伺えればと思います。

 大前提として、太古の時代、日本には固有の文字というものが無くて、人と人とのコミュニケーションは“口伝え”によるものであったとされています。

 そこに、私たちが現在も使っている漢字が伝来して、文字というものを使うようになったわけですけれど。

島谷:まず日本人が漢字を“文字”として認識していたかどうかは別にして、中国の前漢と後漢の間にあった新王朝(西暦8年~23年)で造られた「貨泉(かせん: 銅銭のこと)」が、弥生時代中期末~後期の遺跡から発掘されていますので、そのことから弥生時代中期には、既に中国との交流はあったと考えられます。

 少なくても、そこに記されていた漢字が何を意味しているのか分からなくても、目に触れる機会はあったということです。

 また中国側の記録で、『後漢書』という歴史書があるんですが、西暦57年に日本から使節がきたという記録が残っています。

木下:その使節に、漢の光武帝は、あの有名な「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻された純金の金印を授けたとされていますよね。この金印が江戸時代に福岡で発掘されて、中国へ渡航していたという記録は裏付けられたことにもなっています。

古代の文物は、日本人が文字と関わり始めた頃を物語る
古代の文物は、日本人が文字と関わり始めた頃を物語る

島谷:銅銭も金印も「篆書(てんしょ:篆書体とも言われる)」と呼ばれる書体(文字の様式)で記されています。

 中国の後漢と言えば、篆書よりも新しい「隷書(れいしょ:隷書体とも言われる)」が使用されていた時代ではありますが、尊厳を持たせるようなものには、まだ篆書が用いられていました。

木下:篆書は、現代でも、まさに印鑑として刻されている、あの書体ですね。

 少し時代は下って、邪馬台国の卑弥呼も西暦239年に、『三国志』の中の「魏(ぎ)」に使者を遣わしたとされています。そのように中国との交流があれば、少なくても政権の中枢部においては、漢字というものが全く理解されていなかったとは思えないのですが。

 それとこれは事実かどうかは分かりませんが、『古事記』や『日本書紀』にも、中国の『論語』と『千字文(せんじもん)』が西暦285年(5世紀初頭という説も)に百済の王仁(わに)によって伝えられたと記されていますよね。

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