木下:今、社会的な背景のお話を伺ったんですが、明治維新後、日常生活のスタイルも劇的に変わりましたよね。着物の文化、ようするに、香を焚き染めていた着物が洋服になって。それから電気も普及して。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』の世界は、平安時代からあった目に見えないものへ心を寄せていたというもので。それまでの生活空間にはあった「陰影」というものが、もう全部、フラットに見えてしまうようになったということも、衰退していった要因としてはありますよね。

稲坂:香というものを精神領域で感じてきた日本人。その精神の領域を、美の表現とか、心のありようとして追求し、位置付けてきた。これが日本の独自の文化なんです。日本に香文化を伝えた中国も、長い歴史の中で王朝が変わっていくと文物は遺っても、使う文化がそのまま継承されてきたかと言えば、そうではないですよね。

木下:日本も、終戦後の高度成長期にかけてとか、バブル期とか、物が量産されて、物質至上主義と言いますか、それを享受した生活になっていたと思うんです。

稲坂:世界市場で物を売ることに躍起になっていました。

木下:ただここ最近は、人々の価値観も少しずつ変わってきたところがあるのではないでしょうか。いや、これは日本人だけではなくて、欧米の人もそのような傾向があるかと思うのですけど。

 暮らしから物をそぎ落としていくというか、物はなるべく持たないとか、買わないという風潮が出てきて。「断捨離」という言葉が流行ったり、片付けに関する近藤麻里恵さんの本も全米で売り上げ1位となり話題になっていますよね。物で溢れている時代から、もうちょっとこう、気が漂う空間とか、「無」や「余白」の空間、「間」というものを大事にするようになってきたと思うんです。

香りに意識を集中させると脳内が活性化する

稲坂:文明・文化が進化すると、人間生来の五感力の機能は退化していくようです。目はメガネをかけたり、耳は補聴器を付けたり、何かしら補助する方法がありますけど。現代は、特に嗅覚が退化しているそうですが、自覚はありません。五感力の中枢機能は嗅覚なのですが。

 でも、定かじゃない香りに自分の意識を集中させると、普段使ってない神経回路も動き出し、嗅覚だけでなく他の四覚機能も鋭敏になって、脳内も活性化してくるということが、現代では科学的に解明され続けています。それを先人たちは体験的に知っていたわけです。本当に微妙な違いを聞き分けられる素晴らしい身体能力と方法を、日本人は800年も前から持っていたわけですよ。

木下:それにしても、目に映らないものに、その有用性と、ここまでの価値観を見い出してきた日本人はすごいと思うんですけれど、そもそも香自体が持っている力というものも、本当にすごいものですね。

稲坂:香には人の生活だけではなく、人生そのものを変えてしまう力が存在しているということです。

銀閣寺の弄清亭(ろうせいてい)の間取りを模した香間「香十庵」にて
ビジネス・メモ

 香を「嗅ぐ」ことではなく「聞く」こととして、古来、精神領域で感じてきた日本人は、“目に見えないもの”、“形として捉えにくいもの”を大切にしてきました。物語や和歌で描かれている景色を香に見立て、そこに美や心のありようを表そうとしたことなどは、極めて高い「想像力」であり、「創造力」です。そのように対象の本質や現象の奥に存在する実相を捉えようとすることは、ビジネスにおいても求められる能力ではないでしょうか。しかし、行き過ぎた合理性の追求や全てを定量化していくようなスタンスにおいては、見出すことが難しいものだとも思います。競争原理の中、ただ性急に物事が進んでいく昨今だからこそ、香を「聞く」ことを日常に取り戻したいものです。