コートの開発を足がかりに総合アパレルとして成長を遂げた三陽商会は、50年代に百貨店への出店攻勢を強める。「百貨店はまだまだ殿様商売、一方的な買い手市場の時代である」(三陽商会社史より)中で、百貨店の中でのシェア拡大を強力に推し進めた。商品を出せば売れる時代、三陽商会は百貨店の事業拡大の波に乗った。60~70年代には技術部を社内に設けて「品質向上、品質安定」に努める。その結果、舞い込んできたのが、英バーバリーとの技術提携の話だった。提携の話を持ち込んだのは、ここでもまた三井物産だ。

 社史によれば、契約期間や商標の使用など「契約条件の一つひとつが、三井物産を窓口に解決されていった」。最終的な契約段階において、三陽商会が見せたサンプルに対して、バーバリーは「非常に高い品質水準」に満足したという。三陽商会にとって大きな自信につながったことは間違いないだろう。

 ヒット商品を連発するアイデアマンの創業者が率いる三陽商会。強力なバーバリーとのタッグ、そして巨大集客装置である百貨店との蜜月関係という磐石な成功モデルは、少なくとも80年代までは、見事に機能したのだ。

 だが、どんな成功モデルも、時代の変化に伴い劣化する。企業は新たな収益源となる「二の矢、三の矢」を、必死で探す必要がある。だが、幸か不幸か、バーバリーには「まだ行ける」と思わせる、日本発の異例のヒットがあった。

 それが、90年代後半の「バーバリー・ブルーレーベル」の成功だ。

 団塊世代が支えたバーバリーは、90年代に入ると、発売から20年余りが経過し、若者からは「親世代のブランド」と見られるようになってきた。ブランドの「若返り」を図り、三陽が独自に開発したのがブルーレーベルだった。

 歌手の安室奈美恵さんが97年の結婚記者会見で同ブランドのミニスカートをはいたことで「火に油を注ぐような勢いで売れ出した」(新名宏行・現常勤監査役、社史より)。百貨店にとってもドル箱となった。「女子高校生や若者がこぞって百貨店に訪れた。万引き対策が大変だったほどだ」と大手百貨店幹部は当時を振り返る。

 ただ、世の中が「安室フィーバー」に沸いた頃の、三陽商会の業績をつぶさに見ると、ブルーレーベルが、会社全体の売り上げを底上げするほどではなかったことが分かる。ミニスカートが話題となった97年12月期の売上高は前期から1億7000万円増え1486億6800万円だったが、98年には早くも減収に転じた。2年後の2000年12月期の決算は、26億円の最終赤字となった。

 この当時から、バーバリー以外のブランドが育っていないという本質的な問題が、会社をむしばみ始めていたのだ。なぜブランドが育たなかったのか。

 かつて新規事業を担当していた三陽商会の元社員は、何事も「三陽基準」でないと、仕事が進まなかったと話す。「三陽商会が売るものはすべて『百貨店クオリティー』にするという感覚でやっていた」と話す。品質への誇りとこだわりは、メーカーとして大切なことだ。一方で、百貨店の伝統と「高級さ」を重んじる感覚が、新たな販売チャネル開拓の壁になったようだ。

 「新しいブランドを作っても、どうしても『百貨店色』が濃くなって、新しい売り先を作ろうにも難しかった」(前出の元社員)という。駅ビルやショッピングセンターで売るには、原価と価格を抑えられるように事業モデルの転換が必要だが、それができなかった様子がうかがえる。

 創業家が三陽商会の中で、長きにわたり幅を利かせていたことも、過去の成功体験から抜け出せなかった理由の一つだろう。創業者、吉原信之氏の娘婿である中瀬雅通氏が会長を退任する13年3月まで、実質的に創業家の経営が続いたと言える。現在も主要ブランドのひとつである「エポカ」も吉原氏の娘の長門道子氏が1996年に立ち上げたものだ。

 「“三陽商会らしさ”にこだわったのは、やはり創業家一族だった。その結果、百貨店以外の販路への展開が後手に回り続けて今に至る。創業者の吉原信之氏が持っていたカリスマ性とアイデアに頼り切って、それを超える人間が創業家から一人も出てこなかった」。三陽商会の元幹部はこう振り返る。

 先に見たようにコートの販売やバーバリーとの契約まで、三井物産が果たした役割は大きい。もし同社の中に「商社依存」があったとしたら、それもまた独自ブランドの育成を妨げた可能性がある。他の大手アパレルにも共通する面があるが、最後は商社に頼ればいいとなれば、人材が育ちにくいからだ。