倒産寸前だったメガネスーパーの業績が急回復している。投資ファンドから派遣されたトップは、370店以上をくまなく行脚して、意気消沈していた社員を熱血指導。時代遅れになりかけた事業モデルをどう再生させるか。環境激変に苦慮する多くの企業に示唆がある。
(日経ビジネス2018年2月19日号より転載)

2018年1月1日午前9時半。元旦の静けさが広がるJR新宿駅前に、赤い法被姿の集団が立ち並んだ。異様な光景に外国人観光客が思わず足を止め、不思議そうに見つめる。
「メガネスーパー心得。一つ、毎日が勉強であることを心得ます」──。メガネスーパー新宿中央東口店の宮田永士店長の発声が静寂を破った。周囲のスタッフが祭りのように太鼓を鳴らし、祝い酒が振る舞われる。
「出陣式」と呼ばれるこの行事を、メガネスーパーは16年から毎年、実施している。今年は社員とその家族約180人が参加した。百貨店などの初売りは正月2日以降が一般的。働き方改革が叫ばれる昨今、外部から見れば“ブラック”的なイメージを抱きかねないが、意外にも集まった社員の表情は生き生きとしていた。
決して順風満帆の急成長企業ではないのに、この活気はどこから来るのか。約10年前に赤字に陥り、一時は経営の継続さえ危ぶまれるなど、長い苦悩の時代を経て、ようやくトンネルから抜け出る途上にあるからだ。
●メガネスーパー(現ビジョナリーHD)の売上高と営業損益の推移

上のグラフにあるように、17年4月期まで2期連続で営業黒字を確保できたとはいえ、数億円規模の水準。まだ再生物語は緒に就いたばかりだ。ただ
4年半前、再建請負人として外部から起用された星﨑尚彦CEO(最高経営責任者)の奮闘によって、「負けグセ」がついていた社員の意識は着実に変わりつつある。
SPAに負け上場廃止の危機
メガネスーパーは2017年11月に、持ち株会社ビジョナリーホールディングスを設立し、現在はその中核子会社になっている。1973年に創業し、個人による小規模経営が主流の時代に、チェーンオペレーションによる多店舗展開を進めた。大型店舗に商品を大量陳列し、大量仕入れにより値下げを実現するという、典型的な「量販店」の経営手法で成長した。ダイエーなど大型スーパーが元気だった時代、まさに社名の通り眼鏡のスーパーとして業界を塗り替えたのだ。ピークの2007年には店舗数は500店超、売上高も400億円近くに達した。
だが、この快進撃に待ったをかけたのが“眼鏡業界のユニクロ”の台頭だ。10年ほど前から、「JINS(ジンズ)」や「Zoff(ゾフ)」など、SPA(製造小売り)型の企業が急成長。商品企画から生産、販売まで自社で管理することでコストを大幅に低減。別料金が一般的だった眼鏡フレームとレンズをセットで1万円以下という圧倒的な安値で売り、若者を中心に顧客の心をつかんだ。
これを機に、メガネスーパーなど量販店は守勢に回った。ちょうど1990年代後半、ユニクロが急成長して、ダイエーなどスーパーが苦境に陥ったのと同じ構図だ。
メガネスーパーも対抗値下げに走ったが、太刀打ちできず、2008年4月期に営業赤字に転落。11年4月期には債務超過に陥り、上場廃止が現実味を帯びていた。
経営に限界を感じた創業家一族が、投資ファンドのアドバンテッジパートナーズに経営権を譲り渡したのは11年のこと。同ファンドの下で再建が始まったが、民事再生法などの法的整理を回避したため、過去の負債の重荷は残り、苦戦が続いた。そこで抜本的な再建に向けて13年に起用されたのが、星﨑氏だった。
同氏は三井物産に約10年勤務した後に退社。宝飾品の会社の社長のほか、アパレルなど複数の社長を務める中で、事業の立て直しを経験してきた。
メガネスーパーに来た星﨑氏は不採算の約50店舗を閉鎖するなど、黒字転換への土台を整備した。社長就任前から始まっていた450人規模の人員削減も完了。コスト削減にはめどがついたが、根本的な問題が残っていた。
社長が常に問いかける
「社内の誰もが考えることをやめていた」。星﨑氏は、当時の社内の雰囲気をこう振り返る。
長年のオーナー家によるトップダウン経営の弊害に、業績の低迷が重なり、社員の創意工夫の意欲は喪失していた。そして、経営判断に必要な現場の情報がトップまで上がらず、逆にトップからは現場が何をやっているのかまったく見えない。コストカットの後、本当の再生戦略を描くには、こうした組織風土の刷新が不可欠と考えた星﨑氏は、ひとつの大方針を掲げる。
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