個人経営を中心に日本中、どこの街にもある大衆中華店という業態。だがハイデイ日高のように、外食チェーンとしての事業モデルを確立した企業は数少ない。ROE(自己資本利益率)は14%と、企業として効率よく利益をたたき出している。

店内調理の「鍋ふり」は、教育を徹底してレベルを維持

 ハイデイ日高の原点は1973年、神田正会長が32歳で埼玉県のJR大宮駅近くに開業した、中華料理「来々軒」に遡る。

 中学卒業後に、15もの職を転々とし、埼玉県岩槻市(現さいたま市)のラーメン屋に雇われてから、現金商売の面白さに目覚めた。ためたお金でスナック経営にも手を出したが失敗し、任されていたラーメン店も閉鎖。心を入れ替えて始めたのが、来々軒だった。

「日高屋」の看板商品である「中華そば」。価格は安く、味はあえて「普通」にして食べやすく

 「駅前の屋台のラーメン屋は少なくなったけど、ニーズは必ずある」。店舗数を増やし始めたとき、神田会長の胸にあったのはこんな信念だ。日本では高度成長につれて、街場で屋台を目にすることは減った。それでも仕事帰りや深夜に気軽に立ち寄って、日々のストレスを解消できる場所が求められているはずだとの思いがあった。

 屋台以外の大衆中華店は残っていても、高い家賃を避けて裏通りなどに立地する例が一般的だったという。

 80年代にかけては、チェーン展開に乗り出す外食企業も多数生まれたが、主流はファミリーレストランのすかいらーくに代表されるように、クルマ社会に対応した幹線道路沿いの郊外型店舗だった。駅前で大衆中華店をチェーン展開するという事業モデルに対する懸念から「金融機関に融資をしぶられたことは何度もあった」と神田会長は振り返る。

 93年にはラーメン店を東京・JR赤羽駅近くに出店。これが都内進出1号店で、当時の店舗数は約20店だった。しかし100店規模のチェーンに育てるには、さらに都心にある繁華街でも戦える強い業態が必要だ。

 ここから2002年に「日高屋」にたどり着くまでの約10年間、様々な店舗の形態にチャレンジして試行錯誤が続く。神田会長は「駅前で採算を上げるには苦労したが、マーケットはあると信じて粘り続けた」と話す。

 例えば1990年代半ばに新宿の一等地などで挑戦したのが、北海道から九州まで様々な地域のラーメンを1店で提供する「ラーメン館」。一定の集客はあったが、ラーメン専門店のため来来軒のような中華料理店と比べてアルコールの注文が少ない。客単価が低くなり、収益性に問題があった。台湾の家庭料理を小皿で提供する「台南市場」なども展開したが、続かなかった。