安倍晋三首相は、2020年までに憲法を改正する方針を打ち出した。対象となるのは第9条(戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)にとどまらない。高等教育の無償化など広く産業界にも影響するが、積極的に発言する経営者は少ない。
(日経ビジネス2017年6月19日号より転載)
(写真=安倍氏:的野 弘路、石破氏:菊池 くらげ、菅氏:ロイター/アフロ、山口氏・橋下氏・志位氏:読売新聞/アフロ、蓮舫氏:アフロ)
「最後は総理の腹一つだけど、我々は『高等教育の無償化』までは言っていない」
こう言って苦笑するのは、小泉進次郎衆院議員と共に「こども保険」のプランを提唱している自由民主党のある若手議員。こども保険とは、公的年金保険料を引き上げて財源を作り、未就学児の幼稚園や保育園の通園費を実質無償化しようという子育て支援案だ。
小泉議員らが今年3月に打ち上げると、党内外から幅広い注目を集めた。子育てを終えた世代にも負担を求める形になっているなど課題は多い。だが、社会保障財源になる消費税引き上げが進まない中、子育て支援を少しでも増やす可能性があるとみられたからだ。
ところが、これが今、改憲という大きな政治の渦に巻き込まれようとしている。憲法改正の動きは、安倍晋三首相が憲法記念日に、「2020年までの改憲」との考えを表明して以後、一気に速度を上げた。安倍首相はその際、戦争の放棄などを規定する憲法9条に自衛隊の存在の明記を訴え、教育の無償化にも理解を示したことから改憲論議の真ん中に躍り出たのである。
5月22日には自民党の教育再生実行本部が、大学などを含む教育全般の無償化財源として、こども保険を国債発行などと並ぶ選択肢とする提言を安倍首相に提出。さらに6月5日、党の憲法改正推進本部が教育の無償化を改憲論議の柱の一つにする考えを示した。
現行憲法のどこに課題があるのか
●改正の議論が行われている主な論点
(教育の無償化)
幼稚園と高校、大学などすべての教育を無償にする
憲法は26条で「義務教育は無償とする」と規定している。これについては日本維新の会が幼稚園や高校、大学などすべての教育の無償化を憲法改正で実現することを訴え、自民党も改憲項目の一つとして検討するとしている。だが、財源が課題。
(9条改正)
改憲派、護憲派の最大の争点。9条に自衛隊を明記する
9条は1項で「戦争と国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇と行使を放棄」を規定。2項で「戦力を不保持、交戦権は認めない」としている。安倍晋三首相はこれに自衛隊の存在を明記する第3項を加える考えを示している。改正の柱となっている。
(参院改革)
参院の権限や合区した選挙区の見直しを実施する
最終的に衆院議決が優先する予算、条約、首相指名を除き、法案は参院が否決すると衆院の3分の2以上での再可決が必要。かつて「決められない国会」と批判された。また、国会議員を国民代表でなく、地域代表と位置づけ、選挙区を見直す動きも。
(衆院の解散権明記)
首相の「専権事項」とされるが、憲法に明記はない
衆院の解散は首相の「専権事項」とされている。が、憲法には、首相の解散権は明記されておらず、「内閣の助言と承認による天皇の国事行為」としての解散を行っている。明記のない行為を首相が繰り返すことの是非を問う声もあり、議論になっている。
重要改正項目の教育無償化
実を言えば、教育の無償化は日本維新の会の改憲案でもあり、憲法改正のために、維新を取り込みたい安倍首相には見過ごせない項目。自民党文教族にとっても、その立場を強める格好の材料となる。
こども保険の本来の狙いは「子育て支援の強化」だったが、憲法改正の突風で、高等教育の無償化財源へ当て込まれかねなくなっているのだ。冒頭の若手議員は「大人たち(古参議員のこと)の思惑には乗らない」と言うものの、教育無償化が与党の憲法改正案に盛り込まれる可能性は小さくない。こども保険への包囲網は強まるばかりだ。
今年は1947年に日本国憲法が制定されて70年。その節目の年に安倍首相は、自民党結党(55年)以来の党是である憲法改正を自らの手で実現しようとアクセルを踏む。
この一連の流れを俯瞰して見ると、改憲の動きには“奇妙な”特徴も浮かぶ。その一つは、「我田引水」とも言うべき政治家の影が随所に見え隠れしていることだ。それは、高等教育の無償化だけにとどまらない。
今回の憲法改正論議の中で主要な検討項目と考えられるのは、「9条」と「教育無償化」のほか、首相の専権事項といわれる「衆院の解散権」、強すぎるとされる「参院のあり方」や、大規模災害などに対応するための「緊急事態条項」などだ。
このうち、衆院の解散には現在、2つの道筋がある。まず、憲法7条での内閣の助言と承認による天皇の国事行為として行われる解散。実態としては首相の判断で決められる。そして、69条では内閣不信任決議案が可決された場合に10日以内の衆院解散か総辞職を義務づけている。現行憲法下での解散は23回あり、19回が7条解散となっている。民進党はこれを「解散権が首相の恣意で使われる」と批判するが、そこには別の事情もうかがえる。
「今年末にも解散の可能性がある」。首相官邸に近いある中堅自民党議員は声を潜めてこう明かす。内閣支持率の動向を見て改憲勢力が選挙後も衆参両院の3分の2を維持できそうなら、首相は衆院解散に打って出るかもしれないというのである。同議員は「来年にずれる可能性もある」としながら、今は解散風の方向を見定めようとしているとも話す。
この解散権を持つ首相側は、当然ながら野党に対して強い立場にある。内閣への支持率が高い時や野党の選挙準備が整わない時期に解散を打てるからだ。民進党など野党にすれば、それが嫌だから「首相の専権」に歯止めをかけたくなるという面もある。
実際、同党は前身の民主党時代の2005年に「憲法提言」をまとめているものの、そこに盛り込んだのは非常時に限定した首相の解散権の制限だけ。09年から3年間の政権担当時には、これを変えてはいない。「政権を持つと解散権を手放したくなるはずがない」。自民党の菅原一秀・元財務副大臣はそう皮肉る。つまり、自民党側がこれを憲法改正案に盛り込む可能性は低いということだろう。
首相発言に驚いた「憲法族」
「参院のあり方」にも同様の“におい”がする。日本では参院の権限が強く、予算と条約承認、首相指名を除いて、同院が否決すると衆院で3分の2以上の多数による再可決が必要になる。07年の参院選の敗北で、第1次安倍政権は退陣に追い込まれた。衆院では与党が多数でも、参院では少数になる「ねじれ」が原因となった。
その後の歴代政権もねじれに苦しみ、政治の停滞を招いた。それを思い起こせば「参院の権限を制限し、衆院優位の体制を作ることや、参院を有識者だけの組織にして、議決権は少なくするなど衆院とは性格を変えるといった改革も必要になる」(PHP総研の永久寿夫代表)。
ただ、自民党内では1票の格差問題に注目する議員が多い。地方で人口減少が止まらず、16年の参院選から鳥取と島根選挙区などを合区としたが、早くもその再分離を唱える声が高まり始めている。
そのために、憲法43条で「全国民の代表」と規定される国会議員を「参議院では都道府県など地域代表にする」などと主張する。地域代表なら人口問題は回避できるという算段だ。
「地域の声を中央に届かせるため」という考え方は理解できるが、「参院の強い権限」問題については、安倍首相は「参院の議論を待つ」と積極的には動かない構えを見せる。参院側の反発をかわすためだろう。合区解消の声の高まりと合わせてみれば、本質的な参院のあり方論より現実を優先した感が強い。現時点では、本格的な改正につながるとは考えにくい。
石破氏「矛盾の固定化を招く懸念がある」
となれば、改憲案の柱になるのはやはり9条の改正だろう。9条で戦争放棄を規定する1項と戦力の不保持、交戦権の否認をうたう2項をそのまま残し、自衛隊の存在を明記する3項を入れるという安倍首相の意向は意外なほど自民党内で冷静に受け止められた。
“疑問”を呈したのは、これを長年検討、議論してきた憲法族の一部議員だけと言っていい状態だ。例えば、憲法や防衛問題に詳しい石破茂・前地方創生担当相は「現状の1、2項の状態で3項を入れると矛盾の固定化を招く懸念がある」と主張する。
自衛隊の存在を明記する3項を加えた場合、戦力不保持を定めた2項との整合性が不透明になるというのである。自民党憲法改正推進本部長代行の船田元衆院議員も同様の懸念を漏らすが、党内ではそれ以上の広がりを見せない。
「12年に党の憲法改正草案を策定した後に当選した若手議員が既に200人に達している。もう一度議論をやり直す必要があるのでは」(平将明・元内閣府副大臣)といった声が精いっぱいだ。
9条改正に慎重な公明党も加憲には乗りやすいとしており、改憲を唱えてきた維新の会には安倍首相は教育無償化で接近している(下の表参照)。主要項目を見る限り、党利党略を交え、安倍首相は憲法改正の実現に向けて動いている格好だ。
憲法改正の考え方にはかなりの隔たりがある ●各政党の憲法改正案・考え方 |
政党 |
憲法改正案または改正についての主な考え方 |
自民党 (2012年の憲法改正草案) |
❶自衛権を明記、国防軍保持 ❷首相の解散権を規定 ❸憲法改正提案要件を衆参の各過半数に緩和など |
公明党 (憲法改正案はない) |
❶平和・人権・民主の3原則堅持。条文を加える「加憲」を主張 ❷9条1、2項堅持。自衛隊の存在の明記などを議論の対象に |
日本維新の会 (2016年憲法改正原案) |
❶教育無償化 ❷統治機構改革 ❸憲法裁判所設置 |
民進党 (憲法改正案はない) |
❶平和主義を脅かす9条改正に反対 ❷現行憲法の改正の発議の要件には合理性がある |
「しっぺ返しでも来たら困る」
今回の憲法改正の動きの2つ目の特徴は、産業界からほとんど声が上がらないことだろう。
安倍首相の発言を受け、日本経済団体連合会の榊原定征会長は5月8日、「経済界も憲法についてしっかりした見解を持ちたい」と述べ、年内にも独自提言をまとめる意向を示した。だが、依然として具体的な方向性などは定まっていない。
日本商工会議所もほぼ同様。「自衛隊の存在と自衛権の明確化は国際情勢を考えれば変えるべき対象」。三村明夫会頭は5月11日の定例会見でこう述べたが、日商として憲法改正提言をまとめる気はないという。
同じく憲法問題委員会と安全保障委員会の設置を今年4月に決めた経済同友会も動きは鈍い。設置は決めたが、2カ月近くたっても議論は始まらないままだ。
経済団体には限らない。個々の企業も、まるでタブーのように声を上げようとしないのである。そこにあるのは「憲法について下手なことを言って、政権から思わぬしっぺ返しでも来たら困る」(上場部品メーカー会長)といった本音だろう。
そうして国民の腰が引けていくほど、政権の前のめりぶりが際立つことになる。このままなら、9条と教育の無償化だけが前に進む可能性も高い。実際には、前述の衆院解散権の明記にしても「内閣と国会という国家機関同士の関係の問題なのに憲法上の明確な規定がないままに解散権が行使されている」(井上武史・九州大学大学院准教授)など、現憲法には“不備”も少なくない。
9条の新3項は2項と矛盾しない
安倍首相が憲法9条を正面から改正点に据えたことは評価すべきだ。9条は、条文と現実の状態が乖離しており、何がルールなのかが分かりにくくなっている。複雑な解釈を通じて、初めて自衛隊の存在を明らかにしている。
9条に3項を加えて自衛隊の存在を明記すると、戦力の不保持などを示す2項と矛盾するとの見方もあるが、それは規定の仕方次第だろう。逆に2項の削除などをすれば、むしろ現状を超えてしまうことになるはずだ。
このほか、憲法には、政治の仕組みを決める手段という意味もある。この点では、首相の解散権が明記されていない、内閣の議案提出権が書かれていないなど、現状には問題が多い。改正が必要な点は少なくないはずだ。(談)
米国は三権が憲法の正統性を高めた
同志社大学 特別客員教授
阿川 尚之氏
(写真=太田 未来子)
日本では憲法改正の発議に衆参両院の3分の2以上の賛成が必要で、この条項が厳しすぎて改憲がしにくいといわれる。しかし、この基準は世界では珍しくはない。
例えば、米国も上下両院の3分の2以上で可決して憲法改正を提案できることになっている。さらに、その改正案は50州に回され、4分の3以上の州が批准して、ようやく成立となる。
それでも米国は憲法制定以来、27項目の改正を行っている。議会が変えなければ最高裁が判決で実質的に改憲することもあるし、大統領が憲法の規定にないことを判断したケースもあった。
三権がぶつかり合い、補完し合うことで憲法を時代に合わせて変え、正統性を高めてきた。日本でも見習える点だろう。(談)
日本の憲法は軽量級だから改正なかった
東京大学 社会科学研究所准教授
ケネス 盛 マッケルウェイン氏
(写真=菊池 一郎)
比較憲法論の立場から見れば、日本の憲法は“軽量級”だ。英訳すると5000字程度しかない。ドイツの憲法は約2万5000字もある。憲法に書かれていないことがあまりに多いので、法律で規定している部分が多い。問題が生じても法律を改正すれば済んでしまう。それが70年も憲法が改正されてこなかった大きな要因だ。ドイツは既に、60回も憲法を改正している。
統治機構について記述が少ないのも特徴だ。例えば47条で「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」と書いてある。そうすると1票の格差がこれだけ開いていても、最高裁は「違憲」とは言いにくい。だからこそ国会は「○増△減」のような、つじつま合わせで乗り切ってきた。(談)
法律などの違憲審査も、最高裁は70年の間にわずか10件しか違憲判決を出していない。「最高裁の判事は内閣の裁量で決められるという他国にない事情が影響している可能性もある」(ある憲法学者)と言われ、憲法裁判所の設置を求める専門家は多い。
制定以来、一度も改正されたことがないという世界でも珍しい日本の憲法は、実際には多くの課題を抱えている。国民が憲法を通じて国家権力を形作るという国民主権を本当に実現するために、我々はこの問題に向き合うべき時期に来ているはずだ。
経営者も全力で政治家にぶつかれ
清水 信次ライフコーポレーション 会長兼CEO(最高経営責任者)
1926(大正15)年、三重県生まれ。太平洋戦争に従軍。復員後、56年に清水実業(現ライフコーポレーション)設立、社長に就任。日本チェーンストア協会会長や、日韓協力委員会には設立当初から参加し、理事長を務める。(写真=清水 真帆呂)
現行の憲法は確かに、米国占領軍、マッカーサー司令官の指示で、昭和天皇の戦争責任と引き替えに日本が承認した。だから生まれたときは必ずしも善とも言えないし、ましてや100点満点じゃない。だが、あの昭和20年の敗戦の状況を考えたら、必ずしも否定はできない。
その憲法が今日の日本国のいいところと悪いところを生んでいる。これをはっきりと見定めて議論しないと。今の憲法改正の議論はそこが抜けて落ちている。
9条で「戦争はやらない」と定めた。そのために「陸海空軍その他の戦力は持たない」とも書いてある。ところが実態は陸軍も海軍も空軍も、しかも世界一優秀な戦車隊がある。それからイージス艦や潜水艦だって持っている。憲法で武力の保有を禁止しているのに、現実はまったく異なる。
これはやっぱり直さなきゃならない。安倍さんが言うように、自衛隊の存在を憲法で明確にする。家に鍵もかけないで、すっぽんぽんでどうぞいらっしゃい、とうわけにはいかない。戸締まりのために自衛隊は必要だ。ただし、海外派兵は例外規定なしに厳しく禁じる。それに「非同盟」と「永世中立」も宣言しなければならない。だから私は集団的自衛権の行使にも反対だ。
日本の経営者は自分の会社のことばかり考えて、国全体のことについて意見を言うことはほとんどない。皆無に等しい。ただ、今の経営者にそれを求めるのは酷だね。サラリーマン化した経営者ばかりだし、自分の力でゼロからはい上がってきた人は少なくなってしまった。
もちろん経営者だって、政治に全力で対峙しなければならないときがある。それは憲法だけの問題ではない。1987年、中曽根内閣は突然、「売上税法案」を国会に提出した。中曽根(康弘)さんとは、兄弟・親子といえる仲だったけど、私は最後まで先頭に立って戦った。信念を持って話をすれば、たとえ意見が異なっても人間関係が壊れることはない。中曽根さんとは、今でもツーカーの仲ですよ。
昔の経営者はファイトがあったし、政治家と一緒に天下国家を大いに論じた。今ではもう考えられないが東京・赤坂の料亭で、総理や大臣連中とよく一緒に会合を持った。飲み食いというより、お互い言いたいことを言い合った。政治家と経営者が高級料亭で一席を共にすることに批判はあるのは承知している。ただ、お互いが胸襟を開いて言いたいことを言い合う場があったことも事実なんですよ。(談)
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