最近になってようやく動き出した待機児童問題。だが付け焼き刃の対策では、ほころびは覆い隠せない。保育制度そのものを抜本的に見直すべき局面が来た。
保育制度の改善を訴え、JR新宿駅前で開催され た集会。子供を認可保育園に入れるために必要 な活動は「保活」と呼ばれている(写真=ロイター/アフロ)
パートタイムを複数の職場で掛け持ちしてきたけど、出産を機に『当然辞めるよね』という空気になってどこも退職しました。パートを辞めれば専業主婦扱い。それだと保育は不要と判断されて保育園からは門前払いされます。働きたいけれど、しばらくは無理でしょうね」。東京都内に住む30代の女性は諦め顔でこう語る。
「一億総活躍社会」。勇ましい掛け声とは裏腹に、認可保育園に子供を入れることができず、働けない女性が存在する。長年指摘されてきたにもかかわらず解決してこなかった問題が今年、やっと一歩前進した。
「保育園落ちた日本死ね!!!」
子供を保育園に入れられなかったというある女性が書いたブログが国会で取り上げられ、参院選を控えた状況で国会の争点となったからだ。
政府は5月中に決める「ニッポン一億総活躍プラン」で保育士の給与を2%、平均月額で6000円引き上げるといった対策を打ち出す見込み。だが、社会保障制度に詳しい学習院大学の鈴木亘教授は「砂漠に水をまくようなもので解決しない」と厳しい評価だ。
これまで、待機児童問題に対策がなされなかったわけではない。2015年4月時点の認可保育園(幼保連携型認定こども園を含む)の数は、前年同月比4.3%増の2万5464カ所。利用児童数は233万人で同2.8%増で、実数にすると6万3845人も増えた。
だが、それ以上に申し込みペースが増えた。保育園開設が従来なら仕事の継続を諦めていた女性の就労意欲を引き出している。2015年4月現在で全国に2万3167人の認可保育園に入れない待機児童がいる。保育園に入れないと最初から諦めている潜在的待機児童まで含めると170万人との試算もある。
待機児童問題は、地域による偏りの大きさが特色だ。都市部では待機児童が増えているが、少子高齢化の影響を色濃く受ける地方ではゼロというところも珍しくない。認可保育園の設置計画は自治体に権限がある。機動的な対応が求められるが、需要の急激な増大に対応できていない自治体が多い。
対策を打っても高止まり続く
●待機児童数の推移
注:各年4月1日時点
出所:厚生労働省「保育所等関連状況取りまとめ」よりみずほ銀行産業調査部作成
高所得世帯の利用が多い
●認可保育園利用者とそれ以外の分布
出所:『社会保障亡国論』(鈴木亘著)
地域によって隔たりが大きい
●待機児童の分布状況
出所:厚生労働省「保育所等関連状況取りまとめ」より
現在まで続く「戦後の福祉」
対策が追いつかない根本原因は、保育が「福祉」という現実と離れた建前を引きずり続けていることだ。
保育制度の原点は、第2次世界大戦にある。戦災孤児が大量に発生したことや乳幼児の死亡率が高かった状況を受け、社会福祉法人が保育園の設置・運営主体として中心的な役割を担うことになった。母子家庭で母親がフルタイムで働かざるを得ないといった理由で「保育に欠ける」子供を、市町村が保育園で面倒を見る。これが保育の根本的な考え方として維持されてきた。
高度経済成長期に入っても、男性が家庭の大黒柱で女性は専業主婦というあり方が主流。フルタイムの共働きという、当時としては特殊な家庭をサポートする存在だった。
今は違う。女性の社会進出が進んで共働きの家庭が増える中、保育園に求められる社会的役割は大きく変化している。にもかかわらず、戦後レジームは残ったままなのだ。
一例が、保育の大きな担い手である社会福祉法人の存在だ。社福は土地を担保に金融機関から融資を受けることなどが制度上許されていない。家族経営が多く、事業所拡大の動機も乏しい。機動的な開園という役割を果たしにくく、待機児童の解決に力を発揮できなかった。
孤児、病気や障害など、自助努力ではどうにもならない境遇の人に対する「福祉」としての保育は確かに必要だ。だが、手厚いセーフティーネットが必要な一部の人への対策の延長線上で、多くの国民が使うサービスを作れば非効率になるのは当然だ。
待機児童問題は、母親となった人の退職や休職期間の長期化を意味する。人手不足に悩む企業は、自衛手段を講じ始めた。カプコンは来春までに大阪市内の本社近くに保育園を開設する計画だ。将来的には小学生向けに学習塾の併設も検討する。辻本憲三会長は「オフィスから保育園まで2~3分の距離。貴重な人材が長期間安心して働ける環境を整える」と語る。イオンやゼンショーも保育園経営に乗り出した。
2000年に保育事業への株式会社の参入が認められて16年。ところが、いまだに「株式会社だから、との理由で自治体から開園を断られる」と訴える事業者がいる。自治体によっては社福の既得権益を守ろうとする姿勢が残る。
今こそ福祉という呪縛から保育を解き放ち、抜本的に改める必要がある。複数の識者に取材した中から浮かび上がった、4つの提言を行う。
提言①待遇と働き方の改革
保育園では児童の数や年齢に応じて配置すべき保育士の数が決まっている。しかし保育士の資格を取得した人で、保育士になるのはわずか35%とされる。厚生労働省の調査では、保育士の給与月額は全産業平均に比べて11万円低い約22万円で、低賃金が保育士離れの一因とされる。
待機児童が多い東京都や神奈川県などを中心に展開する民間最大手の保育園運営会社JPホールディングスは、2016年3月期に保育士の基本給を前の期から8%引き上げた。同じく待機児童の数が全国でも有数の千葉県船橋市では、民間の保育士のために昨年から家賃の一部を補助(1戸当たり月額8万2000円まで)している。
政府の取り組みも含め、待遇改善が進みつつあるように映るが、注意すべき点がある。前述の調査は、私立で働く正規・非正規の保育士を調べたものだ。公立で働く保育士は公務員で、給料が全産業平均を上回る場合もある。待遇改善のための公費投入は、待機児童が生じている地域かつ、賃金の低い私立で働く保育士に集中させるべきだ。
どろんこ会は子供をバスで郊外に連れていき、ヤギの世話を体験させている。だが基本的にそのコストは「持ち出し」となっている
保育士という仕事自体の魅力を高める努力も必要だ。どろんこ会グループ(東京都渋谷区)は、全保育士の提案に基づいて運営方針を毎年改善している。年功序列が支配し若手の意見を聞く機会が少ない業界では珍しい取り組みだ。保育士の有効求人倍率は全国平均で2倍を超える(2015年12月時点)が、同会は今年応募してきた2500人の中から318人を採用した。
提言②保育料を引き上げよ
国は、夫婦の世帯年収が1130万円を超える世帯からは月額10万円程度の保育料を徴収するという基準を定めている。ところが、東京都など一部自治体は独自の補助金で、親が支払う上限を月額4万~5万円程度に抑えている。安いサービスに需要が殺到するのは当然。「不要な補助金をやめて保育料を引き上げれば、高所得世帯の選択肢に認可保育園以外が入ってくるので待機児童問題は緩和する」(鈴木教授)。
待機児童が発生しているのに、認可保育園の設置や運営に関して国の定めた基準を上回る厳しい規制を課す自治体もある。運良く認可に入れた児童は質の高い保育を受けられるが、そこから漏れた児童に対して自治体としての責務を十分果たしているとは言えない。「こうした自治体への補助金を国はカットすべきだ」と鈴木教授は指摘する。
一方、保育園内で発生する事故に詳しい寺町東子弁護士は「0歳児や1歳児向けの国の基準は不十分で、安全面で厳しい規制を課すことは望ましい」と指摘する。保育園の評価制度など、保育の質を保つ仕組み作りを同時に進める必要がある。
保育料の引き上げ余地は大きい
●世帯年収別平均支払保育料
出所:三菱UFJリサーチ&コンサルティング「待機児童解消に向けて保育所サービスの市場をいかに育成するか」
提言③経済原理で質の向上を
現在、児童の親は入園させたい認可保育園について、複数カ所の希望を出せる。だが、入園の可否や入園先は自治体の判断に委ねられ、入園後も親は自治体に保育料を支払う。
こうした硬直した構造は、質の向上を阻む。保育料は固定で売上高は経営努力によらず変わらないのに、保育の質を高める取り組みはコストがかかるからだ。「自然体験や食育など有料でもニーズのある追加サービスの提供を認め、保育を産業化すべきだ」とみずほ銀行産業調査部の利穂えみり調査役は指摘する。
将来的には保育料も自由化し保育園が親から直接徴収するようにすべきだ。親が保育園を選べるようにし、自治体からの補助金は親にバウチャー(利用券)として配布するのも一案。保育園はバウチャーを自治体に提出して現金化できる。健全な競争こそが、質の高い保育を実現する。
提言④自治体の壁を壊せ
どろんこ会の安永愛香理事長は昨年11月、政府に対し、「自治体がクルマで40分程度までの郊外に、認可保育園を作れるようにすべきだ」と提案した。例えば東京都港区が千葉県木更津市に保育園を作り、そこに子供たちを連れていく「郊外型移動保育所」だ。
現在、認可保育園は建てた地域の住民を優先的に受け入れなければならないとの規制がある。だが、都市部の中心地に比べて郊外は十分な広さの土地があり、開園に必要な資金も少ない。
4月1日に開園した川崎市の「幸いづみ保育園」は、川崎市と横浜市が共同で活用する認可保育園。定員の3分の1、30人まで横浜市の子供を受け入れる。地域の偏りという問題の特性を考えれば、柔軟に越境保育ができる仕組みを整えることは解決策になる。
* * *
みずほ銀行の試算によれば認可保育園の市場規模は3兆4000億円。事業所内保育など認可外の市場規模の合計4000億円と合わせて4兆円に迫る。不要な規制を廃して制度設計を見直せば、保育産業の成長余地は大きい。
(水野 孝彦、広岡 延隆)
フローレンス 駒崎弘樹代表理事
効果が不透明な規制は緩和すべきだ
駒崎氏は病児保育事業のパイオニア的な存在でもある(写真=中山 博敬)
自治体の側に悪気はないのだろうが、国が定めた基準より厳しい規制を課し、しかも効果が不透明な上乗せ規制というものがあるのは事実。待機児童対策を進めるために、そうした規制は緩和すべきだ。
例えば、東京都杉並区の規制では、私たちが運営する定員が6~19人の小規模認可保育園の園長には「連続で6年間保育士として働いた人」しかなれないことになっている。0歳児から5歳児まで面倒を見た経験者に園長になってほしいということなのだろうが、「連続」である必要はないはずだ。今の規制では産休を取ってしまったがために園長になれないという女性の保育士も出てきかねず、マタニティーハラスメントになりかねない。
また、東京都のバリアフリーに関する条例をそのまま適用すると、車椅子の方が使えるトイレの設置やオストメイト(人工肛門・膀胱保持者)対応が求められる。しかしこれは本来、高齢者向けの配慮であり、増改築などで多大なコストがかかる。区役所と保育園を新設するたびに数カ月かけて交渉し、適用除外を認めてもらっているが、こうした交渉がなければ、もっと速いペースで保育園の数を増やせる。待機児童問題の解決にも貢献できるはずだ
(日経ビジネス2016年5月23日号より転載)
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