「アジアの病人」と揶揄され、製造業が投資を控えてきたフィリピンに注目が集まっている。アジア諸国で人件費高騰が続く中、人材コストの長期安定が見込めるのが魅力だ。汚職の蔓延や不安定な治安など「やばい国」のイメージは、想像以上に改善されつつある。
レトロな風景も残るマニラ。建設ラッシュで街の再開発が進んでいる
フィリピンの首都、マニラから車で南に1時間半行くと、バタンガス州リパ市の「リマテクノロジーセンター」という工業団地が見えてくる。
「これまでずっと空き地だった近隣の工業団地が次々と埋まり始めた。数年前までフィリピン工場の拡張なんて考えもしなかったが、土地を確保しておいてよかった」
新興国向けのプリンターやプロジェクターの製造拠点としてフィリピンに根を下ろして約20年がたつセイコーエプソン現地製造子会社の羽片忠明社長は、変わりゆく窓外の景色を見つめながらこう話す。
同社は現在、約123億円を投じて既存工場の面積を倍増する新工場の建設を進めている。敷地面積はおよそ23万平方メートルとなり、約1万2500人いる従業員を今後、2万人にまで増やしていく予定だ。
ここへきて、フィリピンへ資源を集中投下し始めているのはエプソンだけではない。ライバル、キヤノンも同国での事業拡大をもくろむ。
2015年12月5日、キヤノンの御手洗冨士夫・会長兼社長兼CEO(最高経営責任者)はフィリピンのバタンガス州にある現地製造子会社のプリンター工場を訪問していた。御手洗氏は「(バタンガス州の工場は)キヤノンの海外生産ネットワークの中で重要な役割を担う」と語り、同工場の生産能力拡大への追加投資を示唆した。
同工場が稼働したのは2013年で、中国やベトナムの生産拠点と比べれば歴史は浅い。今後は、現在4000人の従業員を4700人にまで増員し、2018年までに累計生産台数を約1000万台に伸ばすことを目指すという(2015年10月までの累計生産台数が約300万台)。
国内回帰もフィリピンは別
2015年初頭、中長期的な円安展望を背景に、同社は製造拠点の「国内回帰」を明言した。現在、全体の約4割程度の国内生産比率を6割まで引き上げようとしている。そんな状況でも、「フィリピンは別」というわけだ。
自動車業界も、まだ規模は小さいものの同国での生産拠点拡大に向け動いている。三菱自動車は2015年1月、生産能力が旧工場の1.7倍に当たる年間5万台の新工場を稼働。トヨタ自動車は傘下のフィリピントヨタの生産能力を年産4万台から今後2割程度増やすと表明した。
アジア経済をけん引してきた中国や東南アジアの国々が息切れする中、フィリピンが比較的安定した成長を続けてきたのは事実だ。
アジア最大級のモール「モールオブアジア」は地元の客でにぎわう
ここ数年、経済成長率は6%台を維持。マニラには次々と新しいビルが建ち、街中には巨大なショッピングモールが誕生して世界中のブランドが店を出す。日本からも「ユニクロ」や「MUJI」、コンビニエンスストアの「ファミリーマート」や「ミニストップ」といった小売りが出店を強化している。
コールセンターなどの間接業務を請け負うBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)の拠点としてフィリピンに進出する海外企業も増えた。
だが、こと製造業にとってフィリピンは、長年、「進出してはいけない国」との烙印を押されてきた。工場建設など事業を始める際のイニシャルコストが高い製造業は、いったん進出すれば小売業やIT(情報技術)産業などよりずっと投資回収に時間がかかる。にもかかわらず、長期にわたってビジネスを展開するにはリスクが多すぎる、というのが典型的なフィリピン評だった。
まず政情が不安定。反政府組織や少数民族との内戦もある。インフラは脆弱で汚職もひどく、貧富の差は激しい。警察も十分機能せず治安は不安定。現地サプライヤーは貧弱で、島国のためサプライチェーンも構築しにくい…。そうした現実が海外製造業の投資を遠ざけ、他の東南アジア諸国連合(ASEAN)が急成長する中、「アジアの病人」と揶揄されるほど経済成長が伸び悩む原因となってきたわけだ。
では、そんな製造業「不毛の地」に、なぜ日本を代表する製造業が今、こぞって投資を強化しているのか。背景の一つは、人件費だ。フィリピンの人件費が他の新興国に比べ安いと言っているのではない。むしろ他国よりも高い。フィリピンでの拠点拡大を図る企業は、現時点でなく「ここから先の伸び率」に着目している。
マニラの中心部の近くにもスラム街が点在する。拡大する貧富の差は、フィリピンが抱える大きな課題だ
人件費が当面上がらぬ安心感
ASEANの他の国々と比較してみよう(下の表参照)。製造業のワーカーの月額平均賃金を見ると、フィリピンは約267ドル(約3万2400円)で、173ドルのベトナムに比べれば高い水準にあるが、263ドルのインドネシアとはほぼ同水準だ。
人件費はASEANで中位●ASEAN比較
出所:経済指標は国際通貨基金(IMF)「World Economic Outlook」。平均賃金はジェトロ「アジア主要都市・地域の投資関連コスト比較」
ただ、こうした状況について、今回現地で取材した日系企業の経営者全員が「中長期的には割安になる」と見ている。折れ線グラフは、2010年の人件費を100として、各国の人件費の上昇率を表したもの。例えばインドネシア(カラワン地区)は既にこの5年で4.4倍に。ベトナム(バクニン省など第2地域)も2.3倍に高騰している。一方のフィリピンは、5年で15%伸びたものの、他国に比べれば「ほぼ横ばい」と表現していいレベルだ。
「今後も、他の国のように急激に人件費が上がるリスクは考えにくい」と、三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部の堀江正人・主任研究員は話す。理由は明快で、「まだまだ人が余っている」からだ。
爆発的に伸びる他国に比べ、横ばい●アジアの最低賃金上昇率比較
注:2010年の数値を100として計算出所:各国の最低賃金情報から本誌作成
若年層が多く安定した労働力を保つ●フィリピンの年齢別人口ピラミッド
出所:国連「Department of Economic and Social Affairs」
フィリピンの人口は2014年に1億人を超え、2020年には1億1000万人を超える予測もある。平均年齢は23歳と若年層が圧倒的に多く、毎年、約100万人の就業者が誕生する。だが、長期にわたり「アジアの病人」であったが故に、その受け皿が大きく不足している。現時点での人件費がインドネシアやベトナムより高いのはあくまで、1960~80年代のマルコス独裁政権による軽工業化などが成功し、一時的とはいえ「東南アジアで最も豊かな国」だった頃の名残。近い将来、人件費でインドネシアやベトナムが追い越していく可能性は高い。
圧倒的な買い手市場で離職率が低いのも大きな進出メリットだ。200人のワーカーを抱えるある中堅工場は「進出から3年で自己都合で辞めたのは1人だけ」と語る。
海外で日系企業が苦労する労働争議のリスクも低い。統計によるとフィリピンで起こったストやロックアウトは2013年に1件、2014年に2件。同時期2000件を超える中国や、500件近いインドネシア、300件超のベトナムと比べれば雲泥の差と言っていい。
国民の英語力の高さも、一部の日本企業が、生産基地としてのフィリピンに注目し始めた理由の一つだ。
フィリピンではタガログ語に加え、幼少期から英語教育が施されており、多くの国民は英語を話すことができる。識字率は94.6%。英語でマネジメントができる点は、タイやベトナム、インドネシアにはないメリットだ。現地で日本語や英語を話せる人材を探す必要はなく、ワーカーともコミュニケーションを取りやすい。
メリット重視の企業が増える●フィリピン進出のメリットとデメリット比較
「英語が堪能な優秀な人材を確保し育て、将来のインド進出につなげたい」(現地の日系企業経営者)という長期的展望を掲げる企業も少なくない。親日で比較的日本人の感性に近いフィリピン人を育成して市場攻略部隊にすれば、インドをはじめとした英語圏でのビジネス拡大に弾みがつくとの考えだ。
もっとも、単に「人件費が安く、マネジメントが容易で、英語が話せる人材がいる」というだけでは、つい最近まで「病人」とまで言われていた国に目を向ける理由としては弱い。
「海燕ジョー」の時代とは違う
先進企業がフィリピンへの進出ラッシュを始めたのは、政情不安から内戦、脆弱なインフラ、汚職、貧富の差、治安、サプライヤー不在などの一連の「病巣」が今後急速に改善する可能性がある、と判断したからでもある。
まず治安。「経済発展により現地の治安は飛躍的に改善しており、日本人が考えているほど『やばい国』ではない」。今回取材した現地関係者の多くはこう口をそろえる。「過去の事件やメディアの報道などにより日本人のフィリピン観は過剰なバイアスが掛かっている」というのが彼らの共通認識だ。
1986年の三井物産マニラ支店長誘拐事件以来、少なからぬ日本人は「フィリピン=危険」との先入観を抱いている。重大事件の犯人の逃亡先として報道されることも多く、記憶に新しいところでは2012年の六本木クラブ襲撃事件の首謀者の潜伏先と伝えられた。
また、2015年に逝去した佐木隆三氏の代表作『海燕ジョーの奇跡』など様々なフィクションでも、「闇社会でトラブルに巻き込まれた者の代表的な逃亡先」として描かれてもいる。
だが、ある現地駐在員は「闇社会の巣窟のようなエリアも存在するが現実は一部。普通に暮らしていく上では問題はない」と話す。確かに、マニラ中心部のチャイナタウンや、国際的テロ組織の拠点がある南部のミンダナオ島など危険な場所はあるが、日本人居住区や日系企業の工場とは隔絶している。「『行ってはいけない危険な場所』ならベトナムやミャンマー、最近では日本にすらあるわけで、治安レベルでフィリピンを進出先から除外するのは全くのナンセンスだと思う」(同)。
インフラの脆弱さや汚職の横行については、政府が、外資系企業が進出しやすい環境の整備を急ピッチで進めている。その中核を担うのがフィリピン経済区庁(PEZA)だ。1995年に創設され、フィリピンの経済振興や雇用創出に取り組んできた。
フィリピン経済区庁のリリア・デ・リマ長官は汚職撲滅を掲げ、20年超にわたり海外企業の誘致を続ける(写真=山田 哲也)
PEZAの長官は、創設以来変わらず一人の女性が務めている。リリア・デ・リマ氏だ。外資企業の製造業を誘致して20年、4人の大統領に仕えたが、彼女は変わらず環境整備を続けてきた。フィリピンに進出する企業の間では「大統領が代わるよりもデ・リマ長官が代わる方がリスク」と言われる存在だ。
新興国進出にはつきものの賄賂や袖の下の撲滅を図るとともに、経済特区も積極的に創出。国内に334カ所の特区を既に設置し、外資系企業は法人税が最長で8年間免除される特別措置もある。基本的には輸出向け産業に対する措置だが、免除認定を受けた企業でも総売上高の30%まではフィリピン国内での販売が認められる。
投資環境が整う一方で、「アジアの病人」時代の最大の後遺症、部品メーカー不足についても、意外な解決策が見つかりつつある。
「確かにフィリピンには、大型製造業を迎え入れるだけの部品メーカーが不足している。だが、発想を転換すればそれは新たなビジネスチャンス」。埼玉県三郷市に本社を置く金属加工会社、パーツ精工(大田憲治社長)の現地子会社、岩佐高士社長はこう話す。
「不毛の地」だからこそ商機
同社は、日本では社員約200人の中小企業。フィリピンに進出したのは2011年、日本の製造業が円高に苦しむ時期だった。
中国にも拠点があったパーツ精工が、現地の人件費の高騰で次なる進出場所に選んだのがフィリピン。当初の目的は「円高を追い風に、フィリピンで作って日本に輸出すること」だった。ところが、安倍政権の誕生後は一気に円安へ転換してしまい、フィリピン進出は誤算になりかけた。
が、ここで岩佐社長は、現地の日系企業の多くが金属部品の供給元不足に頭を抱えている事実を知る。さっそく日本本社の大田社長に連絡し、NC旋盤やマシニングセンターといった現地の設備を増強。日本では、後工程である熱処理や研磨など表面処理は協力工場に依頼することが多かったが、現地では一貫して加工できる体制を自社で整えた。
すると、日本では付き合いのない様々な大企業からも依頼が舞い込むようになり、今では主力である産業機械関係に限らず、精密機器や医療分野などへも事業領域が広がった。「グループ全体で見ても、今は利益のほとんどをフィリピンでの機械投資に注入している。黎明期なだけにチャンスは大きい」と大田社長は意欲を燃やす。
製造業の未発達からくるサプライヤーの不在は、外資系製造業を誘致する上で、フィリピンが抱える最大の弱点の一つだ。フィリピン自動車工業会の調査によると、フィリピンに進出する日系企業の現地調達率は23.6%。8割近くを輸入に頼らなければならない状況だという。
だが今後は、日本国内はもちろん中国やタイ、インドネシアなどの部品メーカーの間でも、ビジネスチャンスを求め、パーツ精工のような動きが出てくる可能性がある。そうなれば、ますます大企業が進出し、その結果、さらに部品メーカーがフィリピンに集まる、という好循環が生まれるかもしれない。
経済発展に伴う治安改善、PEZAによる投資環境の整備、サプライヤー不足改善への兆し…。確実に変わり始めたフィリピンだが、全ての進出リスクが一掃されたわけではない。
まず、いかんともしがたいのは地理的不利だ。島国であるフィリピンは、アジア経済の成長をけん引する中国大陸と陸続きではない。中国の習近平指導部が掲げる「一帯一路(新シルクロード構想)」が実現すれば、アジアから欧州まで物流網が整備され、モノの行き来が一段と活性化すると見られる。が、フィリピンは物理的にその恩恵を受けられない。
社会不安の温床になる貧富の差も現時点では深刻な状況が続く。現在の貧困率は26%。0.4を超えると社会騒乱が起きるレベルと言われるジニ係数も0.46ある。経済発展が著しいマニラ・マカティ区域でさえ、少し足を延ばせば不法占拠者が住むスラム街が点在する。政府のさらなる貧困対策が急務だが、肝心の政権は5月に大統領選を控え波乱含みの状況にある(上の囲み記事参照)。さらに、米連邦準備理事会(FRB)は昨年12月、2008年から続けてきたゼロ金利政策を解除し、利上げに踏み切った。これまでは、世界的なカネ余りが続き、中国経済の減退や資源安から行き場を失ったカネがフィリピンにも流れ込んできたが、今後はダブついたカネが新興国から引き揚げられる可能性が高い。
とはいえ、手をこまぬいていては何も始まらない。日本企業の製造拠点となってきた中国はもちろん、チャイナプラスワンの候補地として期待されるインドネシアやベトナムでも、人件費の高騰が始まった。多少リスクを取っても国際競争力を持つ将来の製造拠点を今のうちから作る──。先進企業ほどそうした考えを持ち始めているのは確かだ。
5月の大統領選次第では波乱も
着実に投資環境が整うフィリピンではあるが、新興国の経済は、時の政権によって大きく左右される。インドネシアのように、大統領が代わって政策が内向きとなり、外資企業に対する規制が厳しくなることもしばしば。海外進出を考える企業にとって政権交代リスクは大きな悩みの種であり、フィリピンもそのリスクは依然として抱えている。
そもそもここ数年、フィリピンが安定して経済発展を続けてきた背景には、政治が安定していた部分が大きい。2010年に就任したベニグノ・アキノ大統領は、それまで蔓延していた汚職防止を打ち出し、財政再建も進めるなど、国際的にも評価が高い。
現職のアキノ大統領から後継指名を受けたマヌエル・ロハス氏(上)と現副大統領のジェジョマル・ビナイ氏(中)の一騎打ちか。一番人気だったグレース・ポー氏(下)は失格処分に(写真=上:AP/アフロ、中・下:ロイター/アフロ)
そのアキノ大統領も2016年6月には任期が満了するため、5月には新しい大統領の選挙が実施される予定だ。問題は、フィリピンは大統領の再選が憲法で禁止されていること。現職のアキノ大統領が続投することはできず、別の人物がフィリピンをけん引せざるを得ない。アキノ大統領と同じ路線を踏襲してくれれば外資企業にとってはありがたいが、別の路線を主張する人物になれば、再び「アジアの病人」に成り下がるリスクもある。
大統領選挙への立候補を締め切った当初、3人の候補による三つどもえが予想されていた。最も支持率を集めていたのは、グレース・ポー上院議員(写真右)だ。同氏はもともと孤児で、フィリピンで人気の高い俳優のフェルナンド・ポー・ジュニア氏の養子で、国民から人気が高い。アキノ路線を継承し「クリーンな政治」をモットーに掲げており、民間調査会社パルス・アジアが昨年9月に実施した世論調査では27%とトップの支持率を集めた。
だが、昨年12月に事態は急転する。フィリピンの中央選挙管理委員会が「ポー氏に選挙資格がなく、失格である」と発表したからだ。「選挙前に10年間フィリピンに居住しなければ立候補の資格がない」という規定があり、ポー氏はかつて米国籍で米国に在住していた期間が長かったためこの基準を満たせない、というのだ。
ポー氏の陣営はこの決定を不服として選管に対して異議を申し立てている。
このままポー氏が脱落したと仮定すると、残る2人の一騎打ちとなる。一人は、現職のアキノ大統領が後継者に指名したマヌエル・ロハス氏。もう一人が元マカティ市長で現副大統領のジェジョマル・ビナイ氏だ。
世論調査では、ビナイ氏とロハス氏の支持率は悪い意味で拮抗している。ビナイ氏はマカティ市長時代の汚職疑惑が噴出して支持率を下げたが、アキノ大統領が後継者に指名したロハス氏の人気もイマイチ。「アキノ氏の路線を踏襲するという点ではロハス氏の当選を願いたい。アキノ氏は汚職撲滅を進めてきたが、ビナイ氏になれば逆戻りしかねない。中国寄りとも言われ、南シナ海問題など日米との関係も悪化するリスクがある」と現地で事業展開する日本人経営者は不安視する。ただ、ビナイ氏は地方を中心に貧困層の支持を集めている。フィリピンの大統領選挙は国民の直接投票で決まるため、貧困層の票固めをしているビナイ氏の支持が今後伸び、当選する可能性も決して低くない。
アキノ政権で払拭した政治リスク。結果次第では、新・世界の工場への道に暗雲が漂いかねない。
日経ビジネス2016年1月11日号より転載
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