今年9月30日、改正労働者派遣法が施行された。非正規雇用から抜け出せない。そんな構造問題は変わるのか。法改正に先んじて手厚い教育で正社員登用を実施してきた、中堅企業が注目を集めている。
川相商事による非正規社員を正社員に登用するための研修「創喜感働塾」の様子(写真=直江 竜也)
勝川正浩氏(39歳)は、5年前まで非正規労働者だった。製造現場で働いてきたが、「正社員になれるという発想すらなかった」と振り返る。今は製造・物流業への派遣・業務請負を営む中堅企業、川相商事(大阪府門真市)の正社員。大手電機メーカーの工場内にある請負ラインの管理者として生産性を大幅に高め、顧客からの信頼も厚い。
正社員になったことで、勝川氏の人生は大きく変わった。給料が上がって生活が安定し、長年付き合ってきた女性と結婚できた。「最近2人目の子供が産まれた」と笑みを浮かべる。
正社員となって活躍する勝川正浩氏(左)(写真=直江 竜也)
日本経済の現場は、派遣社員や契約社員といった非正規労働者によって支えられている。製造も物流も小売りも、有期雇用契約を結んだ廉価な労働力なしには成り立たないのが現実だ。
だが、労働者から見れば、景気動向や企業の意向によって雇用継続の可否が決まる不安定な立場。事実、リーマンショック時には多くの経営者が「雇用の調整弁」と公言し、雇い止めが横行したのは記憶に新しい。それだけに、正社員を希望する、いわゆる不本意型の非正規労働者は多い。だが、いったん非正規になってしまうと、実際には正社員になるチャンスは少ない。
法改正が無期転換を後押し
国も、強い危機意識を抱いている。今年9月30日に施行された改正労働者派遣法は、法律の意味自体が大きく変わった。「正社員の仕事を派遣社員が奪わないように規制する法律」から、「派遣労働者の雇用安定を図る法律」になったのだ。「働き方の選択がしっかりできる環境を整備する」という、安倍晋三首相の発言にも、それが表れている。
派遣会社には労働者への研修やカウンセリングを行う「キャリアアップ支援」と、3年間の派遣期間終了後には派遣先企業に直接雇用を依頼するといった「雇用安定化措置」が義務付けられた。派遣企業で無期雇用した場合は、期間制限をなくすことも定められた。
国も労働者のキャリア育成を業界に求める
●派遣法と労働契約法の改正ポイント
2013年に施行された改正労働契約法は、契約更新の繰り返しが通算5年を超えたら、労働者が希望すれば無期契約となる内容が盛り込まれている。いずれも、期間に定めのある不安定な雇用形態から、無期転換を明確に推し進める内容だ。
だが、法改正はここ2年ほどで起きた話だ。5年も前に、勝川氏はどうやって非正規雇用という状況から抜け出したのだろうか。そこには、1947年に設立しパナソニックなど製造や物流企業の業務請負で成長してきた川相商事が社運を賭けて実施した、ある取り組みがあった。
勝川氏は関西にある有名私立大学の電子工学科を卒業した。在学中から派遣社員として製造現場で働いていたという。卒業は就職氷河期と呼ばれる時期ではあったが、学歴から考えれば入社できる企業は少なくなかったはずだ。
だが、勝川氏は当時、就職活動をしなかった。「いずれ地元の九州に帰るつもりだったし、夜のバーテンダーの仕事にも魅力を感じていた」と振り返る。だが、製造現場で非正規労働者として年を重ねるとともに、仕事を掛け持ちする体力と気力はそがれていった。
正社員登用の道は厳しい
●非正規雇用のループに落ち込んでいく構図
正社員になる第1ステップである、新卒一括採用。そこから漏れると、日本の労働市場では再チャレンジのチャンスが極端に少なくなる。正社員経験がないまま、派遣と契約社員を繰り返してきたことしか、職務経歴書に書けなくなるからだ。かくして、正社員の募集では見向きもされなくなっていく。
だが、勝川氏には転機が訪れた。2010年4月、川相商事が非正規社員を正社員に登用することを目的とした研修、「創喜感働塾」を始めたのだ。勝川氏は、上司の勧めで第1期生となった。
金銭負担一切なし
「創喜感働塾の研修内容を知った時は驚いた。ここまで内容が充実したものは見たことがない」。製造請負や派遣業界に詳しい船井総合研究所コンサルタントの山内栄人氏は、こう評価する。いったい、どのような内容なのか。
川相商事の「創喜感働塾」の概要
入塾条件 |
現在契約社員などで正社員を目指す人。在塾期間中は、指定現場で実習 |
期 間 |
6カ月間。金曜は座学(約150時間)。月曜から木曜は学びながら働く(約650時間) |
研修内容 |
OJT(品質管理、安全衛生管理、工程管理の基礎)。ヒューマンスキル(マナー、コミュニケーション、リーダーシップ、人生の目標設計など)。テクニカルスキル(ISOマネジメントシステム、製造業の業務理解、衛生管理者育成、PC、営業など) |
費 用 |
無料。テキスト支給。実習用パソコン貸与。第一種衛生管理者の資格試験試験の受験料は会社負担 |
給 与 |
フルタイム勤務の社員と同額 |
研修期間は6カ月。月曜日から木曜日までは学びながら通常通り現場で働き、金曜日は丸1日研修だ。合格率が56.3%という国家試験「第一種衛生管理者」の取得を義務付けるので、日頃の勉強も欠かせない。欠席日数が2割に達したら、理由を問わず退塾となる。
ただし、塾生に金銭的な負担は発生しない。給料は週5日勤務の時と同じ。教材は支給、パソコンは貸与、第一種衛生管理者資格の受験費用も会社が負担する。
講義内容は「テクニカルスキル」と呼ぶ製造や物流の作業に直接役立つ内容と、「ヒューマンスキル」と呼ぶ人間性を養う内容に分かれる。
創喜感働塾をスタートするまでに、「教育プラン策定や教材作成などで3年かかった」と、川相商事の相川定任・滋賀支社長は説明する。社員3人を教育専任として張り付けており、人件費を含めればこれまでの総投資額は1億円を超える。生徒となった社員は週1日稼げなくなるが、人件費は変わらない。厚生労働省から累計で1800万円強の助成金を得てはいるが、年商十数億円規模の川相商事にとっては決して少なくない投資だ。ビジネスモデルの根幹に関わる、社運を賭けた取り組みなのだ。
取材に訪れたのは、金曜日だった。研修風景をのぞいてみると、5人の「塾生」がストップウオッチを片手に作業時間を計測していた。
「うわ、意外と難しいぞ、これ」「さっきより、早くなったね」
コルクボードに刺したピンに、ペットボトルのキャップを次々に並べていた。ビニール袋の中に入れたキャップを片手で扱ったり、取り出しやすい箱に入れたキャップを両手で同時にはめていったりと様々なパターンごとに時間を計測。どのような動作が作業現場でもっとも効率的なのかを学んでいた。
「動作経済」と呼ばれる、製造業の作業における基本知識体系についての授業だ。様々な場面で応用が利き、製造や物流の現場の生産性向上が図れる。だが、「多くの企業は、こうした基本的なことも非正規労働者には教えない」と勝川氏は証言する。
派遣・請負企業の大部分は、人材教育をコストとして捉えている。どうせ数年で去っていく人たちの教育に力を入れるのは、経営の観点で得策ではない、というわけだ。
ところが、川相商事の川相政幸社長は、真逆の発想を打ち出した。「無期雇用化して、社員と会社がずっと付き合う関係になればよい。社員の能力向上は、請負や派遣というビジネスそのものの競争力向上につながる」(同)。今や、同社の正社員の半分以上を、創喜感働塾の卒塾生が占めるようになった。
サービスの質が高まった効果は、数字としても表れつつある。2011年度に11.7%だった粗利率が、2015年度は18.4%と大幅に改善した。1人当たり生産性が、向上したためだ。
法律がやっと追いつく
ここにきて無期雇用転換と教育の充実を志向する派遣法と労働契約法が改正されたことは、こうした問題にいち早く取り組んできた川相商事にとって追い風だ。ライバルが情報収集や教育プラン策定に追われるのを尻目に、サービスの質の向上や受注活動にまい進できる。
業界全体が悩む人手不足も、同社が優秀な人材を集める上でプラスに働いている。「ハローワークに行っても、正社員募集のチャンスはほとんどない。だから川相商事を選んだ」と、ある塾生は証言する。こちらも、他社がいきなり無期雇用中心の雇用体系に転換するのは難しく、競争優位になっている。
川相社長は、今年4月からさらに大胆な方針を打ち出した。請負の現場で働く全非正規社員が、無期転換できる制度を始めたのだ。労働者の目指すレベルに応じて12時間、もしくは16時間の研修を受け、社内試験に通れば無期雇用契約とする。来年からは、これを派遣スタッフにも拡大する。
ついに4割の大台に乗った
●日本の労働者に占める非正規社員の割合
出所:厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」
厚生労働省によれば、全労働者に占める非正規社員の割合は年々増加し、2014年10月時点でついに4割を突破した。非正規社員を使う理由のトップは「賃金の節約」だった。長年続いたデフレや少子化の悪夢は、こうした構造を放置してきたことによる面が大きい。
この問題に正面からメスを入れなければ、「1億総活躍社会」など夢のまた夢だ。法改正で態勢が整った今、官民ともに、この社会的な構造問題にしっかり向き合えるかが問われている。いち早く取り組み、成果を上げつつある川相商事のケースは、多くの企業の参考になるはずだ。
【INTERVIEW】
川相商事の川相政幸社長に聞く
社員が安心して働ければ競争力が増す
ともすれば非正規労働者の「使い捨て」に走りがちな派遣・請負業界。その中で、従業員の無期雇用転換と手厚い教育をセットにした、異色の経営に踏み切った川相商事。川相政幸社長に、狙いを聞いた。
創喜感働塾を始めたきっかけは何だったのでしょうか。
2000年に社長に就いた。派遣・請負業界を眺めると、労働条件も厳しく、雇用形態も不安定だ。当社の社会的意義は何かと思い悩んだ。働く人にとっての問題は、不本意ながら非正規として働くこと。そして顧客満足度は、働く人のモチベーションに左右される。これをつなぐのが教育。そもそも人材ビジネスなのだから、「教育事業」の要素が大きいのは当然だ。
働く喜びを感じる人を創りたいと思い「創喜感働塾」を始めた。管理者となる正社員になってもらうことを想定しており国家資格の取得など卒塾条件は厳しい。だが、それを乗り越えた人材は当社のサービスの質を高める貴重な戦力だ。
川相政幸社長の手帳には、「当社を通じて働く喜びを感じる人を1万人に増やす」という壮大な目標が書かれている(写真=行友 重治)
不安定な雇用が長くなると、仕事のモチベーションが落ちる人が多いようです。
今変わりたいと思っている人をサポートすることが重要だ。卒塾生の活躍で、非正規労働者の中に潜在的に伸びる力を持っている人がいることが実証された。
現場の実践に役立つ「テクニカルスキル」だけでなく、生き方を教える「ヒューマンスキル」を重視している。働き方、生き方が変わった卒塾生を見て、周囲が自分も変わりたいと思う流れができつつある。
無期雇用化の幅を広げています。
4月から製造現場を支える非正規雇用の社員を、一定の研修を経て無期雇用とする「SS社員制度」を始めた。5年以上働いてもらう場合、無期雇用になる改正労働契約法への対応にもなる。改正派遣法でも、派遣スタッフが無期雇用なら派遣期間制限がなくなるメリットがある。教育プランなどは一朝一夕にできるものではなく、法改正の前から取り組んできた蓄積が、業界内の先行優位につながる。
経営としては無期雇用の社員を増やすことには、慎重にならざるを得ない面もある。だが、もし今後リーマンショックのような不況が来ても、派遣・請負の需要がゼロになることはない。その時、顧客企業から選ばれる企業になることで生き残る。
(日経ビジネス11月23日号より転載)
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