ベーリング海より豊かな海

 だから当地では様々な資源が眠っている可能性がある。領土返還の折、確実に果実を得ることができるとされるのが漁業資源だ。仮に北方領土が戻ってきた場合の漁業資源の生産高は、年間数百億円とも言われる。ビザなし訪問に同行した北海道大学の小城春雄・名誉教授はこの海の資源に着目する。

 「北方領土海域は石狩川の18倍の流量を誇るアムール川からオホーツク海へと流れ出る鉄分のおかげで植物プランクトンが大増殖する。世界でもまれに見る豊穣の海だ。このオホーツク海の漁業の生産量は年間5500万トンにも及び、表層魚のほか、200~1000m以下の中深層性魚類は単位面積当たり換算でベーリング海の1.6倍もある」

 海域ではサンマ、マイワシなどのほか、そうした魚をエサとするクジラやイルカ、さらにはラッコやシャチなども多数生息する。小城氏によれば、「海域を含めた自然保護対策は日本よりもはるかに進んでいて、かなり保全された状態」だという。

 そうした豊穣の海を求め、日本はロシア側にカネを払って操業しているのが実情だ。例えばスケソウダラ漁やホッケ漁、サケ・マス漁、コンブ漁などでは漁獲量や操業船数などを決めた上で毎年、ロシア側に数千万~数億円の協力金を支払っている。だが、ルールを破って拿捕されるトラブルも生じている。北方領土問題の解決は日本の食料事情の改善と、漁業従事者の安全が確保される両面のメリットがある。

 「北方領土の価値」は、海洋資源だけではない。大きな可能性を秘めるのは領土問題が解決することで、新たな観光名所になり得ることだ。例えば、択捉島や国後島には良質の温泉が至る所に湧いており、リゾート産業への期待も高まる。色丹島も戦前は「東洋の箱庭」と呼ばれ、国立公園の候補地にもなっていた場所だ。

 例えば1972年に米国から返還された沖縄県。2012年の旅行・観光の経済波及効果および付加価値誘発効果は約1兆264億円に上る。雇用誘発効果は8万1000人だ。

 実は北方領土の面積は択捉島だけを見ても沖縄本島の2.6倍、国後島でも1.2倍ある。北方領土問題対策協会の理事長で日本ユネスコ協会連盟正会員の荒川研氏は「手付かずの自然が残された北方四島は世界遺産候補に十分なり得る。紛争を解決するための方策としても日露共同登録が有効」と話す。

 ところが当地は既に、ロシアの手によって観光事業計画が進行中だ。数年前には、択捉島に瀟洒(しょうしゃ)な温浴施設が開業した。ステンドグラスがはまった内湯には褐色の湯が満たされている。足湯や海を見晴らせる露天風呂も備え、地元民の憩いの場になっている。

 また同島で目下、建設中なのが島で勃興した財閥ギドロストロイが手掛けるVIP(最重要人物)専用リゾート施設。湾に面する風光明媚な立地に、2階建ての宿泊棟のほか、サウナ付きプールを備える予定だ。モーターボートの係留施設も造られ、VIPはサハリンからダイレクトに、このリゾートに訪れることができるようになる。

 ギドロストロイの関係者は「空港もできた。プライベートジェットで来るのもよし、モーターボートで来るのもよし。島ではクマ撃ちや巨大魚フィッシングなどが楽しめる。政界、財界のトップが大自然と戯れることのできる最高のリゾートになるだろう」と話す。

 ロシアは近年、しきりに日本に対し、北方領土を含む極東開発における共同事業への参画を呼びかける。同時に「日本が参加しなければ、韓国や中国などが入ることになる」と脅しも繰り返す。日本政府は「経済協力よりも領土問題の解決が先」と正反対の立場を貫く。

 日露相いれない平行線を、これからもたどるのか。かつて1万7000人以上いた北方領土の元島民は既に半数以上が死亡。残った島民も今年、平均年齢が80歳を超えた。彼らに残された時間は少ない。

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