イノベーション理論と物性物理学を専門とする京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授の山口栄一氏が、現代の“賢人”たちと日本の科学やイノベーションの行く末を考える本企画。前回に続き、青色LEDでノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学教授の天野浩氏との対談の模様を掲載する。
今回のテーマは、イノベーションの孵卵器ともいえる大学や企業のあり方。天野氏が訪問したことのあるシンガポールとの比較や、同氏が進めている企業との共同研究にも話は及んだ。
(構成は片岡義博=フリー編集者)
第二の恩師は数学の先生
山口:24歳の天野さんが窒化ガリウム結晶創製にたどり着いて2014年にノーベル賞を受賞するまで30年ほどあるわけですけれども、私たちの原点、あるいは一番の支えとなるのは家族だという気がします。天野さんの小学校時代は、どういう少年でしたか?

天野:小学校の低学年の頃は病気ばかりしていて、両親が共働きで家にいないので、近くに住んでいた祖母がずっと世話をしてくれていました。高学年になったら元気になって、サッカーとかソフトボールをやっていましたね。ですけど、中学に入ると暗黒の時代。受験が始まるじゃないですか。どうしてもそれが納得できないんです。高校に入るためだけに何でこんなに面倒臭いことをしなきゃいけないんだと。だから中学のときはアマチュア無線にはまって、短波放送でアメリカのポップスなんかを聴いていました。けれど、(母校の浜松西)高校で数学の先生に出会ってから数学がもう大好きになるんです。
山口:そうすると、天野さんの恩師はもちろん赤﨑勇さんだと思いますけれど、2番目の恩師は……
天野:高校で担任だった数学の伊藤保先生ですね。3年間お世話になったんですけど、高校の時も数学だけは好きでした。『オリジナル』という数研出版の問題集が本当に好きで、2年生の中ごろに積分も全部終わって、月刊『大学への数学』をやっていましたね(笑)。
あこがれのコンピューター研究
山口:学部から大学院に入るときに、実はマイクロプロセッサーを研究したかったと伺いました。
天野:ええ、コンピューターが大好きでしたから。ビル・ゲイツさんとかスティーブ・ジョブズさんが1970年代の中ごろに出てきて、我々が大学で電子工学を学ぶのが、その5年後ぐらいです。
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