ノーベル賞天野氏、「1500回失敗しても続けた」
青色LEDでノーベル物理学賞の天野浩氏に聞く(第1回)
山口 栄一=京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授
かつて世界をリードしてきた日本の科学が危機に瀕している。日本のハイテク産業からイノベーションが生まれなくなり、世界に取り残されようとしている。
本連載では、イノベーション理論と物性物理学を専門とする京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授の山口栄一氏が、科学とイノベーションの最先端を行く“賢人”たちと意見を交わし、日本の現状と未来について共に考える。対談の1人目は、名古屋大学教授の天野浩氏である。青色LEDに要する高品質の結晶創製技術の発明に世界で初めて成功し、赤﨑勇氏(名城大学大学院理工学研究科終身教授)、中村修二氏(米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)と共に2014年のノーベル物理学賞を受賞した。
山口氏は16年前の2000年12月から2001年3月にかけて、青色LED実現をもたらした研究の経緯を天野氏ら3人に取材し、その論考を『イノベーション 破壊と共鳴』(NTT出版)に収録している。今回はそれに加え、大学や企業などイノベーションを育む環境の現状についても話が及んだ。その模様を3回にわたって掲載する。
(構成は片岡義博=フリー編集者)
人が知らないことを知る楽しみ
山口:ノーベル物理学賞受賞に至った研究を、天野さんは24歳の時に成し遂げられました。1985年のことです。もしも何歳の時の研究でノーベル賞を受賞したか、その年齢ランキングを作ると、アルバート・アインシュタインの25歳を抜いて、ヴェルナー・ハイゼンベルクの24歳に肩を並べると、私は思います。そこで、あらためてお聞きしたいのです。天野さんの一番のひらめきは、博士前期課程2年の時、サファイア上に窒化アルミニウムのバッファー層を付けて世界で初めて窒化ガリウムの結晶成長に成功されたことです。まず、その経緯を伺えますか。
天野 浩(あまの・ひろし)
名古屋大学未来材料・システム研究所未来エレクトロニクス集積研究センター センター長・教授。1960年静岡県浜松市生まれ。1983年名古屋大学工学部卒業。1988年同大学大学院博士課程単位修得退学。1989年工学博士取得。2002年名城大学理工学部教授。2009年応用物理学会フェロー、2010年名古屋大学大学院工学研究科教授。2014年、青色LEDの研究により、ノーベル物理学賞を受賞。(写真:上野英和)
天野:恩師の赤﨑勇先生に「窒化ガリウムは面白い材料だよ」と教えていただいたのが一番ですね。ただ、きれいな結晶ができないのも分かっていました。それさえできれば世の中は変えられる、みたいな気持ちで、ずっと実験を続けたのが成功の第一の理由だと思います。
山口:確か1500回以上実験を繰り返しても、最初は月面のような汚い結晶しかできなかったということでしたが、めげませんでしたか。
天野:いや、実験自体がものすごく楽しかったんですよ。何でも自分でできるから。学部の3年生までは座学で、単に知識を詰め込んだり、既に分かっていることを二番煎じで教えてもらったりするだけです。
結晶がやはり大好きな先輩からいろいろ教えてもらうんですけど、相手の方が知識は多いから、正直に言うと悔しいわけです。何とか鼻を明かしてやりたくて、新しい実験結果が出ると「どうでしょう」と(笑)。要するに自分がほかの人が知らないことを知る、ということが楽しかった。それもずっと続けられた理由の1つだと思います。
山口栄一(やまぐち・えいいち)
京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授。1955年福岡市生まれ。専門はイノベーション理論・物性物理学。1977年東京大学理学部物理学科卒業。1979年同大学院理学系研究科物理学専攻修士修了、理学博士(東京大学)。米ノートルダム大学客員研究員、NTT基礎研究所主幹研究員、フランスIMRA Europe招聘研究員、21世紀政策研究所研究主幹、同志社大学大学院教授、英ケンブリッジ大学クレアホール客員フェローなどを経て、2014年より現職。著書多数。(写真:上野英和)
山口:1年のうち364日が実験。私は「ブルドーザーみたいに」と表現しましたが、皆さんそうおっしゃっていますね。
天野:別にそんなにガリガリやっているつもりはなくて、楽しかったです。
山口:でも毎回、真っ白いゴツゴツの窒化ガリウムがずっとできる。要するに改善されないわけでしょう。
天野:ところが、例えば原料ガスの流量を変えると、その1つひとつの結晶形が変わったり、あるいは不純物ドーピングも、亜鉛を入れたらすごくきれいな紫色から青色に色が変わったりと、いろいろ変えられるのを見るのは楽しかったですね。
山口:結局、何の成果も得られないまま、惨憺たる思いで修士論文を出すんですね。
天野:確かに修士論文は15ページぐらいしか書けず、出したのが2月ぐらい。就職が決まった同級生は卒業旅行で海外です。私は残って実験をずっとしていました(笑)。
切羽詰まって突き抜けた
山口:バッファー層を導入してみようと思ったきっかけは何ですか。
天野:きっかけは当時、助教授だった澤木宣彦先生から伺った話です。以前、名古屋大学で助教授をされていた西永頌先生(東京大学名誉教授)がシリコン基板の上にリン化ホウ素を成長させるとき、「直接ではなく、最初にリンを少し先流しすると表面がきれいになるよ」と話されていたと聞いたのです。それで低温で窒化アルミニウムをバッファー層として付けてみようと思って。だから決してひらめきとかじゃなくて、皆さんに教えていただいたことを応用したというか、少し使わせていただいたんですね。
山口:でも初めて窒化ガリウム系に対してこのバッファー層法を適用するには勇気がいると思います。
天野:んー、それどころじゃなかったかもしれません(笑)。だって博士課程は3年間ありますけれども、修士課程の2年間に1回もきれいな結晶はできていないんですよ。当時は3本論文を書かないと博士号が取れなかった、とにかく何か成果を出さないといけないわけです。だから勇気とかじゃなく、アイデアがあったら何でも試してみようという必死な気持ちですね。
山口:勇気を超えた何かですね。誰もやったことがないわけですから、できるかどうか分からない。そのチャレンジには相当覚悟がいるだろうと思います。
天野:普通に生活していたら覚悟はいるでしょうね。それを振り切っちゃったというか。
山口:振り切っちゃって覚悟を突き抜けた。
天野:突き抜けています。とにかく何かやらないと学位を取れないという切羽詰まった気持ちだったんじゃないかな(笑)。一発でできました。
山口:それはすごいことですね。
スウェーデンのストックホルム大学で行われたノーベル物理学賞の受賞記念講演(写真:日経エレクトロニクス)
天野:ラッキーだったんですね。あれを改善していたら少しずつできていたんでしょうけど、一発目の条件が一番合っていた。その後、繰り返しましたけど、やっぱり最初に作ったのが一番すごかったんですよ。それはちょっとスピリチュアルな言い方ですけど、窒化ガリウムとの対話をずっとやってきて、その勘所はここだというのがあったと思いますね。
山口:それがノーベル賞につながると当時、思われましたか?
天野:いや、全然。これでようやく論文が1本書けるなと(笑)。
物質が語ってくれる
山口:天野さんの2つ目の大発見は、p型(半導体)の実現です。p型ができなければ、窒化ガリウムで実用に耐える青色発光デバイスは作れませんからね。
天野:ええ、きれいな結晶ができた次は、もうp型で半導体レーザーをつくることを考えていました。当時はp型にするには亜鉛を添加することしかできなくて、結晶成長のとき、いろいろな条件で亜鉛を添加して実験をしても、3年間全くできませんでした。
山口:つまり亜鉛を添加しても最初は光らなかった。
天野:すごく弱かったんですね。でもNTTの武蔵野研究開発センターで電子顕微鏡を使わせてもらったとき、窒化ガリウムが電子線を浴びると青色発光がぱっと強くなる。それで電子線照射は効果があることが分かったんです。
それから亜鉛よりもイオン化しやすいマグネシウムを添加した方が効果的なことに気が付いて、マグネシウム添加に切り替えたら、すぐできました。マグネシウムを入れただけだとp型にならなかったんですけど、電子線を当ててp型になった。それでようやく博士号が取れた(笑)。
山口:これは世界に衝撃を与えました。窒化ガリウムはもともとp型にならないんじゃないかとされていましたね。理論物理学者の中には「窒化ガリウムはp型にならない」と主張する人もいた。ところが、p型になることが世界で初めて証明されて、みんな驚嘆したと思います。
天野:でもどうだろう、半信半疑じゃないですかね(笑)。
山口:1500回以上も実験を繰り返す根性というか土壇場の感覚が培われたのは、それまでに何か体験なり素地なりがあったんでしょうか。
天野:何だろう、うちは、おじが書道をやっていて、小学生の頃はずっと習字で同じ字を書いていたので、ずっと繰り返しやるのは、そんなに苦じゃなかったかもしれないですね。
山口:相手が材料、物質ですよね。物を言わないじゃないですか。物言わぬ相手と駆け引きをするというのは、普通の人はとても不得意です。
天野:レスポンスがない。でも当時は本当に顕微鏡と蛍光顕微鏡しかなかったわけです。でも顕微鏡を見ていると語ってくれますよね。
山口:語ってくれます。よく分かります。
天野:見ると何か語ってくれます。それは楽しかったですよ。
次回に続く
「ニュートンが万有引力の法則を発見した瞬間」「湯川秀樹が中間子を思い付いた瞬間」――。偉大な物理学者たちによる「創発」は、いかなるプロセスから生まれたのか。著作や論文にも記されていないひらめきの秘密は、「墓」にあった。
物理学者の墓石に刻まれた文字からは、生前の業績だけではなく、遺族や友人たちの思いや、亡くなったときの時代背景などが浮かび上がってくる。自らも物理学者であり、数々のベンチャー企業を創ってきた筆者が、世界を変えた天才たちによる創発の軌跡をたどるとともに、現代のイノベーション論にも言及するスケールの大きな著作。
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