日経ビジネスオンラインでは、各界のキーパーソンや人気連載陣に「シン・ゴジラ」を読み解いてもらうキャンペーン「「シン・ゴジラ」、私はこう読む」を展開しています。※この記事には映画「シン・ゴジラ」の内容に関する記述が含まれています。
ゴジラに破壊される町でゴジラを観る
東京湾に出現した2016年版のゴジラが変態(成長)しながら上陸、ゆっくり進みながら破壊していく町のシーンとして品川界隈が出てくる。
その画面を品川にある映画館のIMAXの巨大スクリーンで見てきた。それは、かつて太平洋を横断飛行中の機内で、ハラハラしながら航空パニック映画を見た時のことを思い出させた。自分が今いる「現実」に「虚構」の映像を重ね合わせて体験できるのは、映画ならではだ。
もっとも、その「虚構」の作り方が稚拙であっては、ワクワク、ドキドキの、「現実」と「虚構」の切実感は成り立たない。
製作者の意図がそれだったのかどうか、『シン・ゴジラ』のポスターのキャッチが「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」であることに後で気づいた。
『シン・ゴジラ』のポスター。「現実対ゴジラ。」と記してある意図が何なのかは意味深長だ。(©2016 TOHO CO.,LTD.)
『シン・ゴジラ』の製作者が、稚拙に陥ることなくゴジラの現実性をとことん追求した努力は見事だった。描かれているゴジラは、まったくもって無茶苦茶な理屈で作られていて、その見事な無茶苦茶さが出て来るたびに、私は(声をひそめて)笑い続けていた。ハラハラ、ドキドキではなくて、笑い続けながらSFアクション・パニック映画を見たなんて初めてのことだった(ハラハラ、ドキドキを味わいたかったが)。
『シン・ゴジラ』の脚本・総監督は、2007年~2012年にわたり4作の劇場映画『エヴァンゲリオン』シリーズを製作した庵野秀明さん(1960年生まれ)。「エヴァンゲリオン」は、1970年代以降生まれの世代にとっては、それ以前の世代が摂取したことのない必須栄養素の一つ。そのため、その世代から、「『エヴァンゲリオン』を知らないオジサン、オバサン世代は『シン・ゴジラ』を見てもわかんないだろうな、庵野監督が天才であることも理解できないんじゃないの」と言われていた。
しかし、「エヴァンゲリオン」という必須栄養素なしでも困ったことはないし、劇場公開映画はあらゆる世代を虜にしてこそ成功作品のはず。興行収入が得られなければプロジェクト失敗なのだからと、あえて品川の映画館に出かけ、IMAXスクリーンの前から3番目に座ってポップ・コーンを齧りながら119分間を過ごしてきた(ポップ・コーンと飲料販売カウンター前は大行列で上映開始に遅れそうになった。ゴジラ映画よりその改善を切に望みます)。
書きたいことは山とあるが、肝心のゴジラの登場シーンが思いのほか少なく映画の大半を政府や官僚たちの早口の議論シーンで占めていている点については、多くの批評家や映画ファンたちが書いており賛否がわかれているので深入りはせず、成長した体長117mという荒唐無稽なゴジラそのものについて考えてみることにした。
キリンとチャップリンとブラジルと
今回のゴジラの設定は、『ゴジラ』映画の第1作(1954年)のモチーフ、放射能汚染の危機や核根絶への願いと共通している。
ゴジラ映画の第1作『ゴジラ』(監督・本多猪四郎)は「放射能を吐く大怪獣」であり「水爆大怪獣映画」と銘うっていた。『シン・ゴジラ』と比べるとじつに単純明快な筋立てだったが観客動員数961万人を記録した。(©TOHO CO.,LTD.)
第1作は、米国による水爆実験によって(その放射能の影響によって)ゴジラが凶暴化した、という設定だったが、『シン・ゴジラ』は核兵器使用の賛否や「3.11・福島第一原発による原子力災害」があからさまなモチーフとして描かれている。ゴジラが、海底に投棄された核廃棄物を取り込み、人間の8倍の遺伝子によって原子力をエネルギー源とする怪物に成長したという設定だ。
「虚構」であるはずのこの映画の中で、1950年~1960年代に海底に投棄されたドラム缶入りの核廃棄物や広島の原爆ドームの「現実の写真」が挿入されていることが、それを物語る。福島第一原発での原子力災害発生後、原子炉を「冷やすため」に2台が投入された「キリン」と呼ばれた首の長い生コンクリート圧送車と同じものが、最後の攻撃でゴジラを「冷やすために」よってたかって使われていることも同じ。観客は「原子力=怪物=巨大災害=都市や国家の壊滅」というメッセージを受けとめたはずだ。
2011年3月11日、東日本大震災の巨大津波によって発生した原子力災害。3月20日頃からドイツ製のアームが52mと58mの生コンクリート圧送車が原子炉冷却のための注水に投入。首の長さから「大キリン」と呼ばれた。(写真出典・東京電力)
映画は、しばしばその時代ならではの社会の反映だ。
古くは、大量生産時代を迎えてオートメーション化工場に投入された労働者が機械の一部とされていることを、カリカチュアとして描いたチャップリンの『モダンタイムス』(1936年)はその代表だろう。
チャーリー・チャップリン主演・監督の『モダンタイムス』。20世紀に入ってアメリカの工業力は世界のトップになる。それを象徴する自動車T型フォードは、1908年~1927年に約1500万台が生産。それは流れ作業の製造ラインの「発明」による効率化と価格低下によってもたらされた。だが、ラインの工員が一人休むだけでも製造が止まるため、過酷な労働条件が強いられた。この映画はその工業の大量生産時代の労働者の過酷を風刺している。(写真:Hulton Archive/Getty Images)
工業化時代に続いて到来した情報化時代の進展にいち早く問題提起した『未来世紀ブラジル』(テリー・ギリアム監督)も同じだ。この映画では、政府が全国民の個人情報を統制する情報独裁国家の恐怖を描いていた(『未来世紀ブラジル』は私が好きな映画のベスト3に入る)。
1985年に製作されたイギリスのSF映画。舞台は仮想の欧米のどこかの国で、幻想的だがとても怖い映画だ。タイトルの「ブラジル」はテーマ音楽の、ちょっともの哀しいサンバの名曲「ブラジル」による。(写真・山根所蔵のLD版)
そう考えれば、『シン・ゴジラ』の今日的な、かなりイデオロギー的なメッセージ性は映画のモチーフとしては、自然なことと思う。
もっとも、「ゴジラ映画だ!」と期待に心膨らませて映画館に連れて行ってもらった子供たちにとっては、早口で喋り続ける政府官僚たちの長く難しい議論や強いイデオロギー的なメッセージ性に満ちた2時間は、ちょっとかわいそうかな、と思った。この映画でのゴジラは、これまでの娯楽映画での怪獣や恐竜ではない。『シン・ゴジラ』は、「3.11」の原子力災害で右往左往した当時の民主党政権への絶望感や核武装に対する日本のありようなどへの危機感、漠然とした怒りという経験なしには十分には「楽しめない」からだ(映画製作にあって「3.11」当時の(絶望的)民主党の枝野幹事長に取材したというのは驚きだが)。
もちろん、日本のCGもここまで来たかと思わせる見事な映像は十分に楽しませてくれる。
東京駅に居座っているゴジラに向けて、(爆弾を搭載した?)2編成の新幹線が東京駅に猛速度でホームに進入し大爆発。数編成の山手線と京浜東北線が浜松町あたりの(なぜか線路上にいる)ゴジラに向けてミサイルのように突進し「爆撃」する荒唐無稽な設定を、きわめてリアルにCGで描いていることには拍手喝采だった。突進した山手線と京浜東北線がシン・ゴジラに衝突した瞬間、ロボットに変身!するのかとも思ったが(かつて、そういう合体オモチャがあったので)。
このあたりだけでも、子供たちはわくわくして見ることはできたかな。もっとも、シン・ゴジラとの戦いが終わった後の東京を俯瞰する最後のシーンで、破壊され尽くされたはずの東京がほとんど破壊されていなかったのにはびっくり(CG製作の時間が足りなかったのかもしれない)。
アゲハの変態と巨大な恐竜と
面白い映画とは、まったくあり得ない嘘を徹底してリアルに、ホントかと思わせるように表現してこそだ。そこで、2016年のゴジラを見るに当たっては、どこまであり得ない嘘をどこまで徹底してリアルに描いているか、という点が一番の関心であり期待だった。
東京湾に出現したシン・ゴジラ(「シン」は「新」「神」「真」の意味らしい)は、最初は巨大な昆虫の幼虫のような形だったが、後に変態を繰り返して手足も生えて巨大生物に成長していく。
蝶でも蛾でも変態する昆虫は、幼虫からサナギになったあと、体内の成分がドロドロに溶けた後にホルモンや酵素の働きで蝶や蛾の形に構築されていくのだが、そのメカニズムはほとんど解明されていない。こういう変態は昆虫にしか見られないもので、いちおう動物らしいシン・ゴジラが変態しちゃうのは映画ならではだ。昆虫のような変態を行うのは「モスラ」であれば不思議ではないが、登場する動物学者が、動物型の生物が昆虫型生物へと不可解な進化をした(大嘘の)理由をまことしやかに説明してくれてもよかったと思う。
1961年に公開された『モスラ』のように昆虫の「完全変態」はSF映画のテーマになりやすい。私は、その昆虫の完全変態の不思議を観察するためにナミアゲハやクロアゲハの飼育、羽化、放蝶を毎年行っていて、今年もすでに数頭が羽化している。(写真・山根一眞)
ゴジラの「かたち」は、6500万年前に絶滅した恐竜が起源だろうが、その実在した最大の恐竜は、白亜起後期(8400万年前~6600万年前)の「ドレッドノータス・シュラニ(Dreadnoughtus schrani)」だ。全長26メートル、体重が約60トンで、ボーイング737型機2機分よりわずかに軽いとされる。(→参考記事)
最近、体重は30~40トンだったのではという学説が出たが、それでも十分に巨大だ。(→参考記事)
実際に地球上にこんな巨大生物がいた地球生物史の驚きの事実があるからこそ、ゴジラはあり得ない嘘にもかかわらずリアル性のある存在として映画の主役であり続けたのだろうと思う。
もっとも1950年代末に始まった初期ゴジラ映画であれば、科学的な根拠(リアル性)がなくても楽しい娯楽映画にできただろう(偶然だがDNAが二重らせんであることが発見され『Nature』に論文が掲載されたのは『ゴジラ』の公開前年だった)。しかし第1作から60余年を経て、生命科学が著しく進歩した時代の『シン・ゴジラ』では、とことん科学的なリアル性をもった嘘を創るのには苦労されたことと思う。と、考えると、政府や官僚の議論という「リアル性のある嘘」には徹底した力を込めて表現しているのに対して、ゴジラそのものの「リアル性のある嘘」がちょっと十分ではなかったのではと思わずにはいられなかった。
しんかい6500と暗闇の化学合成と
東京湾に出現し海底トンネル、アクアラインを破壊し東京をパニックに陥れたゴジラが変態を繰り返しながら成長していくシーンを見ながら、まず、「エネルギー源」は何だろうと思った。
東京湾で謎の爆発があった後、「マグマ噴出か熱水噴出孔か」という台詞を聞いて、「おお、そりゃ中々の慧眼だぞ」と身を乗り出した。
熱水噴出孔は、深海に噴出しているいわば海底温泉だ。私が有人深海調査船「しんかい6500」(海洋研究開発機構、JAMSTEC)に搭乗取材で潜航した沖縄トラフの水深1500mの海底では、深海ゆえの高い水圧のため噴出している熱水の温度は300℃を超えていた。
なのに、その周辺には信じがたい生物がぐちゃぐちゃいて目を剥いた(周辺温度は低いが)。
しかも、それらの生物は、地上の生物とはまったく異なるものをエネルギー源としていたのだ。
あらゆる生物は太陽エネルギーに依存して生命を維持している。
太陽エネルギー=光合成によって育った植物を動物が食べ、また植物を食べた動物を別の動物が食べるという、太陽エネルギーによる食物連鎖であらゆる生命は生きていると中学、高校時代に学んだ。
だが、深海はまったくの闇で、太陽光は届かないので光合成は成り立たない。そこで、深海生物は海底から噴出する硫化水素(猛毒)などの化学物質を取り込み、それらの化学物質をエネルギー源にしていたのだ。「光合成」ではなく「化学合成」で生きているまったく別の生物がいたのだ。
この驚愕の事実は1970年代末の生物学の大発見だった。生物の教科書が書き直されたのだ。
ほとんどの生物が棲息できない深海であっても、硫化水素などが噴出している熱水噴出孔の周囲にのみ生物が群集しているのはそのためなのだ。
有人深海調査船「しんかい6500」から撮影した沖縄トラフの熱水噴出孔。群集しているカニのように見えるゴエモンコシオリエビには化学合成の能力はないが、胸部の豊かな毛の中にたくさんの「化学合成」を行う超好熱微生物を「飼育」しており、それを餌として生命を維持している。右はJMASTCの高井研さんが発見・命名したアーキア(古細菌・化学合成微生物)の数々。(写真左・山根一眞、写真右出典・JAMSTEC)
しかも、高温の海底下には膨大な微生物が棲息していて、そのバイオマス量は地表のバイオマス量に匹敵することもわかってきた。その微生物はしかも、100℃をはるかに超える熱水中でも棲息可能で、煮えたぎる熱湯の中で繁殖もできることが実験で確かめられている。海底下には、想像を絶する生命圏、常識破りの怪物だらけの世界があったのである。
つまり、東京湾下の熱水噴出孔(場所としてはあり得ない設定ではあるが)から信じがたい生物、ゴジラが出てくるという設定はとてもよろしい。時に300℃の高温にも耐える生物が現実に存在しているのだから、爆弾の高温にさらされても死なないゴジラだって虚構としては成立するなと思って見ていたところ、なーんだ、シン・ゴジラのエネルギー源は「原子力」であると明かされて、カックンときた。
1950年代前期、アトムの賛歌とゴジラの忌避
原子力をエネルギー源とする漫画やテレビ、映画のヒーローの嚆矢は、鉄腕アトムだった。
その主題歌の作詞は、あの詩人の谷川俊太郎さんなのである。
主題歌では、「心ただし科学の子、アトムジェットの限り十万馬力」と、鉄腕アトムの原子力(核融合)パワーへの賛辞が綴られている。しかも、こともあろうに、その妹ロボットの名は核燃料を冠した「ウランちゃん」という周到さだった。もし兄妹ロボットが壊れたら、とんでもない放射能汚染が広がる、何とも怖いロボット兄妹なのだ。
漫画とアニメ世界の永遠のヒーローとも言える鉄腕アトム。これは2008年に発売されたDVD18枚からなる『鉄腕アトム Complete BOX』のパッケージ。(手塚治虫監督、発売元日本コロンビア)。
『鉄腕アトム』の雑誌『少年』での連載開始は1952年。
『ゴジラ』映画の第1作と同じ50年代前期だった。
しかも、いずれも同じ原子力がコアにある。また、「鉄腕アトム」のエネルギー源は核融合、『ゴジラ』第1作の背景にある水爆も核融合による兵器と共通する。もっとも、一方は核融合を善、一方は核融合を悪という違いがある。一方は原子力の平和利用賛歌であり、一方は原子力の戦争利用への忌避。原子力に対する日本の世論の両極端を、60余年間にわたりアトムとゴジラは担ってきたということもできる。
鉄腕アトムとゴジラがハリウッド映画でも描かれたことは、日本人の原子力に対する両極端の2面を世界に伝えてきたことになるのかな、と、思うこともある。
2016年のゴジラのエネルギー源が原子力であるという1954年の第1作と同じである安易さは、ま、時代ゆえ仕方ないとしても、62年後の作品としては、あのような怪物がどのようにして原子力をエネルギー源としているのかの、リアル性のある「大嘘」を醸し出してほしかった。
(『ゴジラ』第1作のゴジラの武器は噴射する放射能だったが、きわめて進化した原子力のシン・ゴジラに放射能を吹かせなかった「不思議」は別として)
『シン・ゴジラ』では、このゴジラのエネルギー源を知り尽くしていた(らしい)日本人の博士がいた(遺書を残して姿を消しているが)という設定で、その博士が遺した(たぶんゴジラのエネルギー代謝を描いた)巨大な科学分析マップが出てくる。この代謝マップらしきものの解読に成功することで、シン・ゴジラ攻撃のヒントを得るのだが、そのマップを見て、「おお!」と身をのり出した。
(後編に続く)
■変更履歴
映画『ゴジラ』第1作の正しい公開年は1954年でした。お詫びして訂正致します。本文は修正済みです。 [2016/9/6 0:45]
読者の皆様へ:あなたの「読み」を教えてください
映画「シン・ゴジラ」を、もうご覧になりましたか?
その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。
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(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)
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