読み返してみると、戦後の国土計画の経緯を明かしながら、未来の日本のあるべき姿、求めていかねばならない道しるべがこれでもかと述べられていて、あらためて大きく目が見開かれる思いだった。

 「住んでよし、働いてよし、環境によし」という、何とも恥ずかしいビジョンで都知事選に出て落選をした候補者も、それを推した民進党を初めとする野党も、『戦後国土計画への証言』を読んでいれば、少しは結果が違っていたかもしれない。

アメリカ、中国、沖縄の信を得て

 32年前の出版とはいえ、『戦後国土計画への証言』は中央省庁や地方自治の若い官僚たちのみならず、企業経営者、そして学生にとっても必読の本だと思うが、絶版で図書館などでしか読めないのはとても残念だ。今回、この本の中から下河辺名言録を書き抜いてみたのだが、それは100項目以上にのぼり、とてもここでは紹介しきれないが、以下のような“下河辺視点”が次々と出てくるのである。

 質問 :本州と四国の間に三本の橋を建設したのは無駄、なぜそれを阻止できなかったのか?
 下河辺:利根川は(大きな橋が)二十本くらいかかっているじゃないですか。瀬戸内海はちょっと太い川でしかないわけで、「関西、中国、四国、九州をつなぐ橋が三本とはお粗末な」という言い方を私なんかはするわけです。(略)経済政策的に言えば無駄じゃないかという。それはあくまでも、短期的な経済政策上の観点(略)。

 「官僚」と聞くと、頭はよくても融通がきかず面白味のない存在と思う人も多いだろうが、下河辺さんはまったく違う。超一流の文化人であり、文明史家であり、プランナーであり、あたたかなヒューマニストであり、いつも100年先、1000年先までも見つめている最強のプレゼンターだった。

 「アメリカが信頼する3人の日本人のひとり」と言われていると聞いたこともある。中国からの信頼も篤く、零細漁村がわずか10年で100万都市となった都市文明では前例のない深圳は、下河辺さんの構想で創られたとも(「あれは失敗だった」と言っていたが)。日中関係も、下河辺淳さんがお元気だったら、今のような捻れた関係にならなかったのでは、とすら思う。8月17日の訃報を、最も大きく取り上げたのが沖縄県の新聞『琉球新報』だったのは、本土復帰や沖縄の振興、そして米軍基地の移転などの仕事で、沖縄からきわめて大きな信頼を得ていたからこそだ。霞ヶ関を代表する官僚でありながら。

 田中角栄が大ブームで関連本が多々売れている。
 『列島改造論』を推し進めたあのパワーに学べ、ということなのかどうか知らないが、下河辺さんは『戦後国土計画への証言』で、『列島改造論』は田中角栄が自民党の総裁選で独自の政策を訴えるために通産省系の役人とジャーナリストにまとめさせたもので、そのまとめ作業では下河辺さんら「新全総」グループは離反していたと語っている。また、列島改造論をまとめるには2年はかかるのに、わずか3カ月で出版、ベストセラーになったことに田中角栄自身が驚いていたという。そして下河辺さんは、こう明かしている。

 「列島改造論は結局、実施しなかった。事前の動きだけで、列島改造が情報化されて火がついたという感じです。(略)総理になったとたんに、列島改造論に水をかけることしか私には言いませんでした」

 この『戦後国土計画への証言』の「はしがき」の最後には、1993年12月16日の日付に続いて、「田中角栄氏の逝去の日に 下河辺淳」と記しているのは、最も近くで見ていた下河辺さんの角栄評価なのかな、とも思う。