それにしても下河辺さんの訃報を知ったのが、筑波研究学園都市へと向かう途上だったことには、何とも不思議な思いがした。
 筑波研究学園都市は、首都機能を分散する国土計画の1つとして、下河辺さんのビジョンによって作られた新都市だったからだ。

「30年目のつくば」に思う

 1985年には、この研究学園都市を内外にアピールし、日本の科学技術の先進性を加速させる目的で「つくば万博'85」(国際科学技術博覧会)が開催された。その推進役、万博開催のコア思想も、もちろん下河辺さんだった。
 私はこの「つくば万博'85」では、「みどり館」(三和グループ・バイオテクノロジーがテーマ)と「講談社ブレインハウス」(脳がテーマ)の2つのパビリオンの計画を作成したが、それも下河辺さんとの縁あってのことだった(後に、いくつもの博覧会のプロデューサーを務め、また全国の500市町村を訪ね、日本の望ましいありようを考えるようになり、かつ各地で地方振興のお手伝いをするようになったのも、下河辺さんという師匠の存在があったからだと思う)。

 下河辺さんの訃報が頭の隅に張りついたまま、私は、2日間にわたり筑波研究学園都市を代表する3研究所(産業技術総合研究所、理化学研究所バイオリソースセンター、物質・材料研究機構)のおよそ25の研究室を、合計20時間かけて取材した(先進的な研究機関の今後のありようを3研究の理事長とともに語り合うための準備)。そして、各研究部門の飛び抜けた先進性にいたく感動。また「つくば」の科学基盤の厚さを目の当たりにして、「21世紀のエンジン、ここにあり」と確信したが、それこそが、かつて下河辺さんが目指していたビジョンだったのだと思わずにはいられなかった。

 それにしても、現地到着直前に知った下河辺さんの訃報は、「山根君、30年目のつくばをしっかり見てきなさい」という天の下河辺さんの導きだったに違いない。

 ●東京都心から羽田への東京モノレールから見える、湾岸エリアに続々とマンションができ始めていたことについて。
 「地盤の弱さや間違いなく東京を見舞う巨大地震を考えると、あそこに建物は作るべきではないと言っていたんですがね、巨大地震が来たら……」

 ●東京一極集中を解消するため首都圏の人口を地方に分散する計画が作られていた時に、それが実現できるかどうかについて。
 「今、六本木で遊んでいる若者たちを調査させているんです。あの若者たちが東京よりもいいといって移り住む地方の姿とは何かを知らなくては」

 私の記憶には、下河辺さんのそんな断片的な言葉しか残っていないのだが、『戦後国土計画への証言』を読み返し体が熱くなった。
 この本の序文で下河辺さんは、「私自身の著作は一冊も作るつもりはなかった」としてその理由を書いているのだが、3人のインタビューアー(本間義人さん、御厨貴さん、檜槇貢さん)の20時間におよぶ聞き書きという形で、阪神・淡路大震災の前年、1994年にこの本が出たのである(聞き役の3人には深く感謝)。

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