対談の中で私は、「もし、下河辺さんに復興の指揮をとってもらったら……」と発言をしている。
 後で聞いたことだが、この対談記事のコピーが神戸の復旧・復興に取り組み始めた関係者に多く回されたという。
 そして対談から半月後、下河辺さんが阪神・淡路復興委員会の委員長に就任されたというニュースが伝えられたのだ。

下河辺さんとの対談は、1995年11月10日に発売された『メタルカラーの時代2』(小学館刊)に収載。神戸製鋼所の被災と復旧、震源地が建設中の明石海峡大橋の直下だったことから、地震発生直後の点検証言なども入れられた。
下河辺さんとの対談は、1995年11月10日に発売された『メタルカラーの時代2』(小学館刊)に収載。神戸製鋼所の被災と復旧、震源地が建設中の明石海峡大橋の直下だったことから、地震発生直後の点検証言なども入れられた。

 「メタルカラーの時代」の連載では、1995年10月15日号と10月20日号で、再度、今度は復興委員会の委員長としての下河辺さんと対談し、記事を掲載している(単行本『メタルカラーの時代2』1995年10月刊、『文庫版・メタルカラーの時代・4』2000年3月刊に収載、いずれも小学館刊、「文庫版・メタルカラーの時代」は電子ブック版も発行)。

 これらの対談をあらためて読み返してみて、その言葉のひとつひとつには、幅広い歴史認識や文明のありようを深くまで見つめる思想の片鱗が伺えて、じつに新鮮だった。自分が書いた記事を自分で読んで感銘するというのも変な話だが、すでに31年も前のことゆえ、記憶は定かではなかった。それだけに、私がまとめた下河辺さんの記事が、この阪神・淡路大震災の時だけだったのは、今思えば不覚だった。
 「霞ヶ関の神」に、存分に聞いて書いておきたかった。
 もっとも、1970年代から「本を出しませんか」と何度か話した記憶があるが、いつも固辞されていたのだが。

縄文に理想を見る

 その下河辺さんと初めてお目にかったのは阪神・淡路大震災の22年前にさかのぼる。
 各紙が報じた下河辺さんのプロフィールは、1962年から1998年まで5次にわたる「全国総合開発計画」の担当官僚として、戦後のニッポンを形作ってきたことに終始していたが、私にとっての下河辺さんは、長年にわたり幅広い知恵、モノの見方、人生の指針を授けてくれた師匠なのである。

 1973年、25歳になったばかりの私は8ヶ月におよぶ南米8ヶ国の一人旅から戻り、日本でのジャーナリスト仕事に復帰。自動車問題の取材で会った工業デザーナーの泉眞也さんにアマゾンなど南米各地で壮絶な世界を見てきたことを話したところ、「すばらしい方を紹介するから一緒にいらっしゃい」と、その場からいきなり都内での小さな会合に連れて行かれたのである。
 それは下河辺さんを囲む私的な会だった。

 当時の下河辺さんは経済企画庁の総合開発局長だったと思うが、不勉強な私はそんなことも知らなかった。
 この会は、戦後日本の都市開発、高速道路建設をどう進めるべきかを学ぶため、下河辺さんを頭にして、欧米先進国の実情を調査、視察を行った泉さん、そして都市建設や高速道路のエンジニア、さらに若い官僚たちのクラス会的な意見交流会だった。
 以降、その下河辺さんを囲む会に、私はまったくの部外者にもかかわらず毎回声をかけていただき、それはおよそ20年続いた。
 今思えば、その会で交わされていたさまざまなテーマの意見が国や外交の政策として実現していったのだから何とも貴重な経験だったが、若僧だった私にはそんな意識はまったくなく、いつも末席で単にわくわくする思いでそのやりとりを聞いているにすぎなかった。

 いつのことだったか、下河辺さんに「理想的な日本の姿」を問うたところ、こう口にした。

 「縄文時代の日本列島の人口は10万人だったんです。1人が1日歩き続けると、別の1人に会うくらいの人口密度ですよ。山根君、日本はね、その縄文時代の人口10万人が理想の姿なんだと思うんです」

 今回、下河辺さんの唯一の本、『戦後国土計画への証言』(下河辺淳著、1994年、日本経済評論社刊)を読み返してみて、冒頭の「今日的な国土政策、国土計画の在り方」の書き出しが縄文時代論で始まっていることに気づいた。

下河辺淳さんの「生」の言葉で綴られた唯一の本、『戦後国土計画への証言』。復刊、あるいはデジタル出版化を実現してほしい。
下河辺淳さんの「生」の言葉で綴られた唯一の本、『戦後国土計画への証言』。復刊、あるいはデジタル出版化を実現してほしい。

 「国土を論ずるということは、簡単に言えば、人と自然との関わり方をいろいろな角度から論ずることだろうと思います。その国土論に関して、政策的意図をどのように出すのか、というあたりで、国土政策論というものが成り立つと思っています。
 したがって、国土政策論を論ずる時にいろいろなアプローチの仕方がありますが、基本的には、歴史的に見るということは大きな見方の一つだろうと思うものですから、日本の国土政策論として何を私が注目していったかということを最初にお話したらいいのではないかと思います」

 そして、縄文時代の人口が10万~20万人であったこと、発掘から日本列島に散在していた小さな集落の生活や生きるノウハウに共通性があることに興味を持っている、もっとも各集落がどのようにネットワーク化されていたのかがわからない。しかし、縄文人が地層のいい丘陵部の自然条件のいい土地を適地として選び住んでいたことは、現在の国土政策で学ぶべき点がとても多いと語っているのだ。

 私に「縄文時代の人口10万人が理想」と語ってくれた時は、おそらく国土開発の望ましい姿を探るために、歴史を辿り、専門家と意見を交わし、縄文時代の日本を調べ、さまざまな視点を得た時だったのだろうと思う。

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