一方、あまりもの惨状に頭に血が上ったままの私は、戦後の都市計画の図面を描いてきた下河辺さんに、「日本が築いてきた都市インフラはこれほど脆弱なものだったのか?」と、ぶつけた。

下河辺淳さん。東京帝国大学(建築学専攻)在学中に終戦。1947年に戦災復興院に入所、戦災復興のための被害調査が最初の仕事だった。(写真・山根事務所アーカイブス)
下河辺淳さん。東京帝国大学(建築学専攻)在学中に終戦。1947年に戦災復興院に入所、戦災復興のための被害調査が最初の仕事だった。(写真・山根事務所アーカイブス)

 「新幹線や高速道路を建設した時代は、採算性が大テーマだった高度成長期です。採算性の見通しがないものは建設できなかった。(略)経済原理を考えると今回のような異常な災害に対する備えが十分とはいえない要素があったのだな、ということが印象としてはあります。
 (耐震構造の規格は満たしていたこと)それは事実ですが、構造物に求められる『安全基準』というものは、つねに標準的な確率論が多いんです。道路や鉄道が通るルートは無限に多様な自然の中を通っている。建設技術がその無限に多様な自然に対応できるかというと、そうはいかないんです。崩壊した部分をみると、技術的な構造上の問題以上に、その場所の自然条件がとても気になります」

 自然をあなどってはいけない、望ましい環境との共生のありようを探るべきというのは、下河辺さんが以前から一貫して語っていたことだが、この時もそのことにずいぶんと言及した。

 「『予想せざる事態』という言い方もありますが、そもそも人間が未来や自然の動きを予想することなど不可能ですから、『予想せざる事態』ということ自体、意味がないんです。言い方が非常に難しいですが『免責される限界を超えた』ということでしょう。(略)『自然との共生論』が盛んにいわれていますが、そういうことを口にする人たちは、自然の恐ろしさを知っちゃいないんじゃないかと思うんです。自分の都合のいい、おとなしい自然との共生しか頭にないでしょう。(雲仙普賢岳の噴火や今回の巨大地震などは)全部、自然現象です。それらは『共生』など、とうてい不可能な自然現象です。自然の力は人力のおよばないもの、恐ろしいものなんですよ」

「人」への心あるまなざし

 下河辺さんが言う「予想せざる事態」は、東日本大震災での原子力災害後にさかんに使われた「想定外」に通じるが、下河辺さんは、そういう恐ろしい自然の力をつねに念頭におきながら戦後の国土開発を続けてきたのだろうと思った。

1995年1月17日、兵庫県南部地震発生当日に行った対談。当時71歳の下河辺さんに巨大地震を伝える号外を見せる当時47歳の山根。東京海上研究所にて。(写真・山根事務所アーカイブス)
1995年1月17日、兵庫県南部地震発生当日に行った対談。当時71歳の下河辺さんに巨大地震を伝える号外を見せる当時47歳の山根。東京海上研究所にて。(写真・山根事務所アーカイブス)

 戦後の国土開発は、地方や地域住民の意志を踏みにじってきた中央官庁による強引な乱開発だった、という論者がまま多かった。だが、下河辺さんの視点はいつも「人」への心あるまなざしに満ちていたことは理解されていない面があった。
 私が、「十分な安全を込めた高度技術で建設したものでも、何パーセントかのリスクがともなうという議論が起こりませんか」という質問をしたときに、ちょっと語気を強めたのは、下河辺さんが「人」へのまなざしに腐心してきからこそだったのだろう。

 「私は、そういう議論には賛成しない。がんの治療を受けた後に医者からグラフを見せられて、『5年を過ぎると死亡率を示すグラフは低いレベルで安定しますから大丈夫」と説明されるほどいやなものはないんです。もたらされるのは、生きるか死ぬかのどちらか一つしかないんです。技術者が口にする確率論と、個人が経験する世界とのギャップは非常に大きい。(略)今度の地震でもたくさんの方が亡くなりましたが、亡くなった方の家族からすれば、確率でものごとを考えようとする技術論は通用しません。残ったものは、『この地震で死んだ』という事実だけですから」

 予定時間は大幅に超過、すっかり日が暮れた。

短時間の約束だったが対談は2時間におよびすっかり日も落ちた。(写真・山根事務所アーカイブス)
短時間の約束だったが対談は2時間におよびすっかり日も落ちた。(写真・山根事務所アーカイブス)

 この悲しみを、災禍をどう乗り越えていけばいいのか……。

 「『踏み固めていく』という言い方がふさわしいかもしれない。そのことを『自然との共生』と言うなら言えるかもしれない。実に厳しいものです。ただ、先ほども触れましたが、今、言われているような『楽しく笑いながらの自然の共生論』に対しては、まったくそれどころじゃない、と言いたいんです。人と自然と技術の厳しい関係について目を覚ますべきときです」

 「メタルカラーの時代」の連載では、対談をテープレコーダーで録音し、そのカセットテープを大和速記に届けて文字に書き起こしてもらっていた。生の話し言葉の言い回しなどを忠実に再現することで、いきいきとした発言が跳ねる記事にまとめられるからだ。しかし、この日は対談開始が午後4時で、夜には原稿を仕上げねばならなかった(対談原稿はすべて私自身が書いていた)。
 そこで、大和速記さんに「超特急」で文字起こしを依頼。テキスト化の作業を急いでもらうために、20分ごとに録音したカセットテープを千代田区虎ノ門の同社に届けることにした。ICレコーダーはまだ登場しておらず、音声のMP3のようなデジタルデータをネットで送ることなど夢の時代だ。インターネットもまだ始まったばかり。そこで、対談を継続しながら、20分刻みの録音を数回にわけてバイク便で虎ノ門へと送り続けたのである。

 対談終了は午後6時を過ぎていたと思うが、驚いたことに帰宅時には対談の全テキストがパソコン通信のメールで届いていたおかげで、翌週発売号に下河辺淳さんとの対談が掲載できたのである。

兵庫県南部地震の発生から6日後、1995年1月23日に発売された『週刊ポスト』連載「メタルカラーの時代」のページ。その時、山根はすでに神戸へ現地入りしていたが、これ以降、巨大災害はライフワークとなった。
兵庫県南部地震の発生から6日後、1995年1月23日に発売された『週刊ポスト』連載「メタルカラーの時代」のページ。その時、山根はすでに神戸へ現地入りしていたが、これ以降、巨大災害はライフワークとなった。

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